いなくなってしまった人の不在について延々と考えてしまう日がある。
何故いないのだろう、と考えてると向こうって良いところなのかなあ、と思うし、向こう側にいる人たちのことを思うとすごく魅力的に思えてくる。
最近の時勢だとそんなことは出来なくなったけど、一昨年とか、よく飲んだ帰りにいなくなった友人のことを思い出していた。楽しく飲めば飲むほど、帰り道、友人のことを思い出した。別段、そいつとお酒を飲んだ記憶はほとんどないにも関わらず、だ。
なんでだろう。楽しい時間と不在の空間のアンバランスさが、どこか居心地が悪かったからだろうか。
そんなことを思っていると、テツコさんの"全部嘘みたい"という言葉が妙に耳に残った。
昨夜のカレー、明日のパンは数年前に夫である一樹を亡くしたテツコさんがギフとふたり暮らしをしている物語である。
広い一軒家でふたりは暮らしている。毎日、一緒にご飯を食べて、ご近所さんと関わりあーだこーだ言いながら、ふたりは暮らす。
数年経って、テツコさんには恋人はいる。恋人はいるけれど「前になんて進みたくないのさ」と言う。結婚は考えられない、と1話でテツコさんは口にして、ギフとふたり、過ごす。
ふたりの周りにはいろんな人が出てくる。CAをしていたけど笑えなくなったムムムや、テツコさんの恋人でありマイペースで優しい岩井さん、顔面神経症を患った元産科の先生のサカイくん。まだまだ、たくさんの登場人物たち。
ただその誰も彼もがどこか憎めない空気感とともにある。
ちょっと変わった登場人物と美味しそうなご飯で日々は続いていく。どこかあべこべな会話をしながら。
基本的な大軸は安っぽくあえて言うなら「テツコが一樹の死を悼む話」であり、「死から進む話」である。だけど、どうしたってそう表現すると違和感が付き纏うしこのドラマの軸を外してしまうような気がする。
死んだ人を悼む話でもある、だけど当たり前ながら死んだ人のことをずっと話したりしないのだ。
釘付けになってこのドラマを観ていた一つ大きな要素は「ご飯が美味しそう」なことにある。
そして、劇中、それとともに繰り返し「ご飯はどんな時も食べなければならない」と口にして、かつ、本当に美味しそうに登場人物たちは食事をする。
ただそれだって、毎回ではない。
仏さんに出して硬くなったご飯を苦労しながら口にするシーンもあるし、
喪ったばかりの空気感に押し潰されそうになりながら、なんとかインスタントラーメンを食べるシーンもある。
それでも、いつだって、彼らはご飯を食べるのだ。誰かが、自分が作ったご飯を。
ご飯を食べて笑い、話し、働き、彼らは生きていく。
そうして前になんて進みたくないのさ、と口にしたテツコさんもそれでも本当にゆっくりと変わっていく。
笑えなくなったムムムはパワースポットというお惣菜屋さんを始める。
それぞれに訪れる「生き続けていくための変化」あるいは、生きていくことそのものの積み重なった時間を愛おしく紡いでいく。
パワースポットという店を開く時、サカイくんは言う。
「好かれようとか、うまくやろうとか、良いんだよそういうの。うん、そういうの、もう良いんだ。
俺はもういい。自分ができることだけを精一杯毎日やっていく。
そうやって生きていく」
今こうして、メモっていた彼の台詞を打ち込みながらわかった。そうか、そうだ。
さっき、死から進んでいく、とか死を悼む、と書きながらあった違和感はこれだ。
別にテツコさんは「一樹の死を乗り越えよう」としていたわけじゃない。
ムムムも「失くしたものを取り戻そう」としたわけじゃない。
ただただ、生きているのだ。生きていくのだ。
それは、結果として同じに見えるかもしれないが、過程が……気持ちが違う。全く、全然、違うのだ。
そこに大きな「感動的な」物語を持ってくるわけでもなく感情爆発!なんてことをするわけでもなく、
ただただ、淡々と彼らは生きていくのだ。
生きていくしかないのだ。
それは何も、悲観的な話なんかじゃない。
そして、一樹の描き方も物凄く優しい眼差しで描かれる。
傷が開いたらすぐ駆け付けてしまいたいくらい今もまだ好きだったとしても
「生きていない」彼は触れられない。
一樹のいる場所から一歩一歩進んでいくテツコたちを描きながら、エンディングでは一樹との思い出を描く。
エンディングのたびに、泣いていた。
本当に愛おしくて大切な記憶で、だけどこれをおいていかないといけないのか。そうして、生きていくことが正しいのかと子どもみたいな気持ちで駄々をこねたくなった。
代わりを見つけられてしまう、生きていけてしまう。それは、幸せというか、正しいのかもしれないけど、嫌だ、と思ってしまった。
んですけど、別に「代わり」じゃない、上書きじゃない。
描き足していくのだと、昨夜のカレー、明日のパンは言う。そうして、暮らしていくのだと。忘れる必要も置いていく必要もないのだ。
仕事をしてご飯を食べて、それが暮らしていくことだ。
暮らしていくことは難しい。実は誰にでもできることじゃないんだと最近思っている。暮らしの時間は本当に貴重なのだ。
仏壇のご飯を食べるシーンが印象的だったんだけど、あれもそういうことなのかもしれない。
生活の中に、みんないるんだ。
消えていなくなることと生きていくことは違うのか。
木皿さんの作品が高校時代から好きだ。
特にこの昨夜のカレー、明日のパンは検索をかけるとサジェストに「名言」が出てくるくらい、手元に残しておきたくなる素敵な台詞が多い。
それは人によっては「説教くさい」と感じるのかもしれない。「優しすぎる御伽噺」と取ることができるかもしれない、と先回りして思う。
それくらい、まるで大きな絆創膏に包まれるような錯覚があった。ご飯があまりにも美味しそうだったからかな。
それでも、思う。
優しい物語があっても良いじゃないか。
誰かに届けたくて抱き締めるように届けられた優しい言葉が、私は好きだ。