えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

祝日比谷野音100周年 Creepy Nutsのオールナイトニッポンpresents 日本語ラップ紹介ライブ2023 in 日比谷野音

新緑の匂いがする。野音のライブにこのラジオを通して行く機会があった。2回目。改めて思う。
自然の中にある音楽堂はその季節の匂いだとかそういうものを感じやすくて、その分、記憶の解像度があがる。たぶん、私はあの濃い緑の香りを今後の生活の中で嗅ぐたびにこのライブを思い出すと思う。
正確には思い出したいと思って、何度かわざと、大きく深呼吸した。





ライブが始まる前、後輩と「観たいけど観たくない」と何度も駄々を捏ねた。
ラジオの最終回以降、自分でも拍子抜けするくらい意外と、大事な番組がない日常を生きていけていた。好きなラジオも、変わらず増えてる。
いまだに終わったのに知らせてくる通知にも、あったのになくなった「おいでよ」にもそんなに削られずに毎日が過ごせてる。
その理由がこの日のライブだなんてこと、分かってた。だからこそ、このライブが終わった後が怖い。そんなことをくだを巻きつつ、ぼやいてたんだけど、今、結構幸せばっかりで、びっくりしている。
その時のことを覚えているために文を書こうと思う。新緑の匂いとか、自分の文とか、我ながら忘れないために必死すぎるけど、でもそうしてなんとか形は変わっても残しておきたいくらいこれは、大切なものなのだ。





Awichさんは札幌生業ぶり、SKY-HIさんはパフォーマンスを生で見るのは初めましてながらに音源などで楽しんでいて
やっぱり2組とも最高に強かった。





私はこの「日本語ラップ紹介ライブ」が大好きだ。




大好きなふたりの楽しそうで嬉しそうな「この音楽の良いところ」の話をした直後、ご本人が登場、ライブをかまして、興奮したふたりが出てくる。


そんな「大好きなコーナーの実写版」を今回も噛み締めていた。かつ今回は2組とも「元々結構好きで繰り返した聴いたことのあるふたり」だったから尚更、その前後の興奮に頷いたり、かましている様子、会場がどんどんヒートアップしていくところにも、たまらない気持ちになった。







そしてふと思う。
このきっかけで出会ったふたりだけど、もし違う流れで好きになっていたら、果たしてどうだったんだろう。



今のように、好きだったろうか。



いやそもそも、HIPHOPに興味こそあれど、なんだかんだと手を出すきっかけを見失っていた私だ。
SKY-HIさんのことをもしかしたら、それこそ色眼鏡で見て、その魅力に気付けなかった、気付くのが遅くなったかもしれない。
Awichさんのことを音楽だけ、あるいは表面のパフォーマンスだけ知ってその色気に「なんか共感できなさそう」とゆっくり曲やパフォーマンスを楽しもうとしなかったかもしれない。





だけど、このラジオが教えてくれた。
ふたりがそれぞれゲストにきた回はもちろん、普段の放送でも。
HIPHOPっていう音楽がどんなものなのか。自分の生き方、姿勢、リアルタイムで変わっていく色んなものを焼き付けるようにして音楽や言葉が生まれていくこと、「リアル」ということ、そういう音楽だという話を聴くたび、もっと知りたいと思った。聴きたいと思った。音楽を聴きながらその曲や人、背景に想いを馳せる楽しさを知った。





SKY-HIさんのMCでグッときて、MISSIONを噛み締めながら聴いて
Awichさんの沖縄への言葉を聴いて、「Toyomiちゃんのバース」に震えて



そういう楽しみ方、音への乗り方を私はこのラジオで聴いてきたんだなあと改めて思う。





ラジオが終わると聴いて、そっから何度も、何時間も、このラジオを通して出逢った音楽のことを考えた。いつの間にか、私の携帯の中の音楽の割合を日本語ラップがかなり占めるようになった。このラジオは、ただ楽しいだけじゃなくて、私にとって新しく素敵なものに出逢う場所だったのだ。




SKY-HIさんがMCで口にした「音楽で」の言葉も含めて思う。受け取り方、楽しみ方。そのままならうまくいかないこと、口にしづらいことも、楽しめること。




そして度々ふたりが口にしていた通り、今まで彼らがそうしてきただろう「これやばいんすよ」という温度感で語られるからこそ、楽しかったこと、好きになったものが、たくさんある。




そうして、待ちに待ったCreepy Nutsのターン。
新しめの曲を立て続けにやる彼らに、熱量に、自然と「ああ彼らは音楽に集中してやっていくためにラジオを辞めたんだ」と改めて思った。




そう思ってしまう、納得するセトリだった。




日本語ラップの最高到達点であるラッパーと世界一のDJのユニットは確かに今、HIPHOPの「顔役」だった。凄まじいスキルと熱量で「分からせ」られた。彼らが、音楽を選ぶこと。これからも音楽と一緒にあること。





ふたりのターンになって冒頭3曲くらいそんなことを実感して泣き続けていた。
何が一番泣けてくるって、ラジオがきっかけで好きになったはずなのに、なんなら「ラジオがなければここまで好きにならなかった」と確信してるのに、このふたりが音楽に集中するって聴いて、このライブでそれを改めて実感して、すげーわくわくしたんだ。大好きなラジオが終わってしまうのに。




こっからまだまだ、スキルも表現幅も増して、広がって、どんな景色を見せてくれるんだろう。それは、大好きなラジオが終わってしまう悲しさを超えて確かな興奮になった。でもやっぱり、めちゃくちゃ悲しい。
どっちの感情も紛れもなく確かで、そんな混乱する気持ちの中でふと唐突に「してやられた」という気持ちになった。





Creepy Nutsのふたりが初期の活動を語る時によく言う「どうやって手を上げさせるかあの手この手を使って場を盛り上げてきた」というエピソードが大好きだ。
ふたりのトーク人間性、曲の面白さ、とっつきやすさ、聖徳太子ラップ、DJプレイ…。
ともかく自分たちが持つありとあらゆる手段で「主役を食って」きた、「HIPHOPなんて興味がないお客さんを振り向かせて」きた。





そのことを、唐突にライブ中に思い出してああそうか、と思う。
それこそ、このラジオもある意味その「あの手この手」じゃないか。






ラジオで語られる飾らない言葉、どこに行き着くか分からない軽口の応酬、そこから見える人間性に惹かれて曲を聴き、その人そのものを出して作り出していくHIPHOPに夢中になった。





それがいつの間にかこうして彼らのライブに足を運び、手を挙げ踊って声を出す。興奮する。





ラジオだけ、と思っていたはずなのに気が付けばこんなにずぶずぶと彼らの音楽にやみつきになって抜けられなくなってる。まじでとんでもないことしてくれたな、と泣きながら笑ってしまった。彼らのラジオが大好きだったはずなのに、そのラジオが終わることすら受け入れてしまうくらい彼らの音楽を好きになっていた。彼らの音楽がやっぱり好きなんだと、改めてこの最後の機会で思い知らされた。それは、決して嫌な感覚ではなかったけどさすがに「やりやがった!」と叫びたくはなる。






そうしてその上で。
堕天でR-指定さんの煽りに合わせてコールアンドレスポンスをやりながら、大阪野音の時のイベントを思い出す。堕天の曲の解禁、そこからのラジオイベントライブ。リハで唐突にやることを決めたと語りながらバッチリ決めたふたりとそれに声を出さずに興奮した私たちリスナー。そのみんなが今、声を出す。ずっと、いつか声を出せるその時がきたら、と言っていた日が、目の前にあった。





ラジオで、新曲の話を聴くのが大好きだった。
ラジオを通して聴いた曲への想い、制作中の話、間に合わない!というボヤキ、聴いても分からない機材の話。そういうのも全部のっかって好きな曲が、たくさんある。



なんかそれは、すごいことだな。




そしてそれは全部、消えない。これからの曲たちがそういう出会い方をできないのは少し寂しいのがやっぱり本音ではあるけど、でも、決してそれは「距離があく」ではないんだと思う。うまくまだ言葉にはできないけれど、そうではないんだと改めて今回のライブで実感した。




すごいふたりを好きになったと思ったし、この人たちを通して日本語ラップを好きになったこと、そこから好きになったAwichさん、SKY-HIさんをはじめたくさんのアーティストのこと、そういうことを噛み締めて「ああ良かった」と帰るつもりだった。彼らの音楽を楽しみにしていこうと思っていた。






サントラ前のMCを聴くまでは。



Rさんが曲前、あのひとつひとつの言葉を選びに選ぶ、その言葉使いで話してくれたことを繰り返し思い出している。



音楽を、彼らの今までのラジオを、私たちの人生に寄り添わせてくれるという。残念ながら直後にメモをしたわけじゃないからめちゃくちゃニュアンスだ。ニュアンスだけど、一言一句の正しさよりも私はあの時喉の奥が熱くなった感じとか、そういうものを大事にしたいと思った。




そうだった。
私は私の人生を生きてるんだ、生きていくんだ。ラジオが終わっても、私たちの人生は続く。
そしてその時そばにあるのは、この今目の前で興奮した、最高の音楽と、それからきっと、今まで聴いてきた彼らの夜中のお喋りなのだ。





気持ちの悪い話だけど、私は普段の日常のふとした瞬間、ラジオで聴いたふたりの会話をよく脳内で再生する。なんとも言えなくてやってらんないな、という気持ちになった時、あのふたりならなんて話しするんだろうって妄想する。



いつの間にか、聴きまくった彼らの会話が日常の中、当たり前みたいにそこにある。
彼らが散々ラジオで語ってきた「彼らの好きなラジオ」と同じように、私にとっても彼らのラジオが「日常の中から逃げ込む場所」になっていた。



白々しく正されない、何も聞き出したりしてこない、ただそこに在って同じ周波数に集まった「ばかばっか」な私たちが、ずっと、よふかしをしていた時間。




それは終わったとしても、何一つなくなったりしないのだ。
そして、その中で生きていく、私こそが自分の人生の主役でいないといけないんだろう。




彼らが心血を注いで、削って、たくさんぶちあげた曲たちをサントラに、生きていくんだということを私はきっと、何度も思ってきた。そうやってこの音楽を愛してきた彼らの話を聴いてそんな思いがいつの間にか私にも伝染していた。
こんなすごい曲たちが、ラジオが、自分の人生の伴走者にいてくれる。それって、すごいことだ。




そして改めて、そう思いながらこのライブを振り返れば、ここに立っていたすべての人がそうだったんだ。自分の人生を生きて、主人公としてそのど真ん中、立って歌って言葉にして音にして、生きている人たちだった。
そんなことを思ってびっくりしながら聴いたBad Orangez。そういえばこの曲の良さをより深く知ったのも、大阪野音での夕陽の中でだった気がする。




頑張るって楽しい。




そう飾るわけでもなくそう笑って言うみんなの姿に、そっかあ、と泣きそうな気持ちで笑っていた。




もっと寂しい気持ちになるかと思った。途方に暮れてしまうかもしれないと思った。
でも、もっと清々しくて、嬉しい気持ちになっていた。負けるか、みたいな、こっから自分の人生を歩き続けるんだ、と思う。





いつかまた、とこの時にとっておいたというふたりの顔を見ながら、この番組が好きだったと思った。これからも好きだと思う。
また、いつかまた、このラジオに再会できますように。それまでは、精一杯自分の人生を歩きながら、彼らの音楽を聴きながら、過ごしていきたい。