えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

「これしかない」と思えなかった私がCreepy Nutsのライブに行く理由

「これしかない」と決めてラップを、DJをやってきたふたり。



そんなふたりのライブを観終わって幸福感に浸りながらビールを飲んで一緒に喋りながら、ふと一緒に行った先輩の呟いた言葉が忘れられない。



「自分にはこれしかない、って自分は思えなかった」





正直ドキッとした。私も、彼らを追いかける度に思う。エッセイやインタビューを読む度、ラジオを聴く度、MCを聴く度。自分にはこれしかない。私もそう思いたかったのに思いきれずに、その覚悟を決められずにそのまま置き去りにしていったものに覚えがある。
そのくせ、当たり前の「真っ当な道」を歩いてるとも思えずにその妙な卑屈さが余計に自分が今どこに立っているかの立ち位置を曖昧に変える。



もしもあの時、自分にはこれしかない、と思えていたら。
手放したくない、と覚悟を決めていたら。

何か変わっていただろうか。

そう思わず想像してしまうくらい今の自分はたぶん「整えられて見る影もない」んじゃないか。




ただアンサンブル・プレイで飛び跳ね、拳を挙げていた高揚感の中で、でもなんか、元気なんだよな、とも思っていた。元気で楽しく、嬉しかった。
あんな風になれなかった、と思いつつもそれは劣等感を覚えているわけでもなくてむしろ、なんだか自然と元気が出るようなやる気がでるような、そんな自分をも肯定してもらえたようなこの感覚はなんなんだろう。
そんな「自分とは違う」ふたりにどうして私は自分を重ねていたんだろう。




それをああでもないこうでもないと考えながら当日のラジオで語られた言葉にそれだ!と叫びたくなって、思わずブログを書いている。



10月17日、名古屋でのライブ後に東京で生放送というクレイジー過ぎるスケジュールで放送された「Creepy Nutsオールナイトニッポン」はスペシャルウィークだった。ゲストに東京03の3人、それから構成作家のオークラさんを招きさまざまなことが語られるなか、来年春に上演される公演が発表され、その企画が生まれる経緯が話された。








オークラさんがCreepy Nutsの武道館を見た時の「こんな気持ちになれることがもう自分にはないのかもしれない」は、私たちの「自分にはこれしかないと思えなかった」にも近い気がした。もちろん、オークラさんは自分の好きを貫き、自分の好きを仕事にしている。
でもその感覚は自分の好きが仕事になっているか、自分の欲しかったものを手に入れられているかとは微妙に関係ない感覚な気もするのだ。



俺の話を音楽にし続け、常に考えて自問自答し、何かを誤魔化すこともせず、いやしたとしてもそれすらも「誤魔化した」と言う。
Creepy Nutsのライブは一つの物語のようだと私もずっと思っているけど、それは単に構成がそうというだけではなくて、そこに立つふたりの感覚、姿があってこそだと思う。
そしてそれを見ていると自然と「自分はどうなんだ?」と問い直してしまう。


だからこそ私は彼らのライブにどうしようもなく食らうのだ。だけど、そうしながらも音楽にのっかり、MCに笑い頷きするその感覚が心地よくてそれを心底好きだと思えることが嬉しくて、2時間過ごした後、気が付けば前を向いている。






Caseという生でようやく彼らの音楽に出逢えたあの日以来、何度も生業やラジオイベントに足を運び、そうして毎度毎度号泣してきた。
そんな私が今回、初めて泣かずに1つのライブを終えられた。



Caseのライブで初めて「勝手に重ねて」自分の言葉や好きなもの、変えられなかったもの、そういうものに「それでもいいじゃん」と思わせてもらってきた。
2020年から……いやもしかしたらそれより前からずっとぎりぎりにすり減らしてきた何かを「それでもこれが大好きで大事でやめられないんだ」と思った。離したくないと思った。そう思っても良いんだとあの日、Creepy Nutsが教えてくれたような気がした。




そうして一年。
ワンマンライブとして、あれから一年分の時間を重ねたCreepy Nutsの音楽を私は笑顔で聴き切った。ずっとにこにこと笑顔のままで、楽しいという気持ちフルパワーで、自分を重ねたり想像したり、ともかく、最高の気持ちで過ごした。
これが好きなんです、と先輩を連れて行けるようになっていた。足を運んだHIPHOPのライブで、聴いた音楽で私も自分の言葉を自分なりの形で綴って良いと思えるようになっていた。いや、良いとか悪いとかじゃなくてそうしたいからするんだ。
それを、なんだかしみじみと噛み締めながら、でもそれ以上にその瞬間瞬間全部が愛おしく楽しい最高の時間だった。
その時間は、切実さとはまた少し違ったけどずっと大切だった。泣くように削るように縋るようにでもなく、ただ静かに、冷静に、でもすごい興奮しながら、正気で、私は彼らが好きだった。
どこまでもシラフだったけど、合法的にぶっ飛んでいた。






Creepy Nutsのライブはこれしかないではない人間をも肯定してくれる。いや究極ひとはみんな「これしかない」なのかもしれないと思い出させてくれる。だって、そこでそれを楽しいと思ったその時点でもう、それがその人の形なんだから。




Creepy Nutsを通して出会った日本語ラップたち。そこで語られる"俺の話"を、"リアル"を楽しみながら、重ねながら、どうあっても変わらないもの、変えられないもの、ブレない軸のことを思った。そういうものに自分を重ねて、そうなんだよな、と言葉や気持ちの出口を知ったことが何度もある。
もういっこ世界ができたような、といつかDJ松永さんが語っていたことをふと思い出してしまうくらい、私にとって日本語ラップを聴く時間は一つの逃避行になった。
そして、その逃避行は深く潜れば潜るほど、日常の中で無理やり整えてきた抑え込むための枠を外してごくごくシンプルな自分の輪郭を確認するための時間のように思うのだ。



その輪郭は、私にとっての楽しいや面白いで出来ていた。これが好きだ、で出来ていた。
言葉にすること、表現すること、自分の好きなこと、やりたいこと。そういうもの全部が自分の輪郭でそれはどれだけ削られようが整えられようが、離れることなく、そこにあった。
私はCreepy Nutsを見て、彼らの言葉や音楽に触れて自分の好きなものを離すもんか、と何回も思った。離さなくても良いんだと勝手に解釈してきた。それが仕事になるとかならないとか意味があるとか他人から見てどう見えるかにも関係なく、ずっとずっと、好きでやりたいことで良いんだ、と思った。それは十分、私にとっての「捨てられないもの」だった。



かつて天才だった俺たちへ、で、あるいはのびしろで歌われた、まだ自分たちには色んな可能性があること、それを日々生きていく中で狭めながら、それでも「草葉の陰でゴンフィンガー」を挙げるその日まで、生きていること。
それを私は、何か大袈裟でもなく「だってそうなんだから」という当たり前みたいな温度感で今、信じることができている。
そうやって毎日を重ねて、またその時の自分でCreepy Nutsにこれからも向き合えることが、心底楽しみなのだ。