まだ余韻の中にいる。
すごく食らうライブで、情報量も熱量もすごくて、間違いなく「このライブを観たこと」が一つ大きな意味になったというか、大事な時間になった。
そのこと含めて受け止め方を考えてて、そんな中で何度も聴いた彼らの過去のラジオを聴きながら、思わず聞こえてきた言葉をメモした。
スヌープドッグについてのHIPHOPニュースを話した後の彼らが言う。
「でもHIPHOPってそれやんな」
「確かに」
「なんか誰が何をやるかが重要なんよ」
第10回 2018年6月5日放送 『革命』 Creepy Nutsのオールナイトニッポン0(ZERO)
#ANNJAM
ああ確かにな、と思った。
あの2時間のライブは、そんなライブだった気がする。他でもないCreepy Nutsの二人が、しかも2022年のふたりが生み出し、紡いだからこそ、意味がある2時間だった。
「Creepy Nuts Major Debut 5th Anniversary Live 2017〜2022 in 武道館」
デビューから5年を記念したライブは、予想外で予想以上で最高で物凄かった。
この5年間で彼らが得たもの変わったもの、逆に変わらないもの。5年という時間、今この瞬間、R-指定とDJ松永という1DJ1MCのふたりの現在地。ひとりのひとの、ふたりの、今と過去の話。どれもそのままそうだ、とも思うし違う気がする。
一言で表せないその2時間の濃密な時間のことを、書き残したい。
※セトリについて大いに言及しています。
メジャーデビュー指南から始まった冒頭。軽快な掛け合いに「待ってました!」とばかりに会場が揺れる。
多少「今の彼ら」に合わせた改変はあれど、おおよそ、デビューが決まった時の友人との会話のまま、曲が進んでいく。
タイアップにCM曲、主題歌にオープニングとエンディングテーマ、その他諸々。
MCで語られていた通り、彼らが当時なんなら多少自分たちを揶揄するように「いやまさかね」と冗談混じりに口にした"デビュー後"をほとんど……どころか、それ以上に驚くような晴れ舞台での快進撃を彼らがこの5年カマしてきたことを歌い上げていく。
それを聴きながら私たちの脳裏にもこの5年間で彼らが成し遂げてきたアゲてきた場面が浮かぶ。ほんとにとんでもない人たちだな、と思うし、今日この場がその5年の行き着いた先なんだな、と思う。
最後「すごいやん、俺、未来見えてたやんけ」と言う「友人」にRさんが言うすごいのはそれを一つ一つ実現してきた「俺と松永」という一言に最高に痺れる。
2年前よりも収容人数を増やした武道館。
開演前、どんどんと埋まっていく客席を見ながら心が熱くなった。すげえ人数の人がそこにいた。
私は、コロナ禍で彼らを好きになったから尚更、そんな満杯の観客席で彼らのライブを観れることがたまらなく嬉しかった。
配信で見た「かつて天才だった俺たちへ」が初めて観た彼らのライブで、そこからCaseに生業、アンサンブル・プレイと重ねて彼らのライブに足を運んできたけど、そうなんだよな、生が一番なんだよな、そうヘルレイザーのバースを噛み締めながら思う。ちょっくら前から禁断のmedicine。でも、その「禁断」もちょっとずつ解禁されてきて、全部が元通りじゃなくてもこうして少しずつ形を変えながら、「生」を取り戻してきた。それは全部、ここにいる人たちの努力の結果だ。
畳み掛けるようなセトリは、スタミナだとかそういうの全部度外視で爆発しそうな熱量だ。
どうやってシーンの中で立ち回ってきたか。
Abemaで放送されたMy name isでRさんが口にした「最初の頃は(特にフェスなどの現場ではより顕著に)交渉からライブが始まった」という言葉が印象的だった。
HIPHOPを聴き慣れていない人がたくさんいる現場だろうがHIPHOPを聴き慣れている人が「なんか違う」と言おうが、彼らの手段で耳と目を集め、彼らの場に変えていく。
そうした結果、彼らは「助演」ではなくなったし、自分たちなんか、と下げながら話すこともなくなったという。
いつかの自己卑下的に歌ってきた、「このまま」でのしあがっていく狼煙的な曲が逆説的に「カマし」になっていく。
初期曲が好きだ。
新しい曲が出るたび、好きな曲は増えていく。毎回最高傑作だな、と思う。それと同じくらい、変わらず初期曲がずっとずっと好きだ。
ぬえにどっち、かいこ、シラフで酔狂にたりないふたり。
そんな曲たちは、今、変わらずずっと聴いていて、自分に重ねてこなくそって頑張るための自分をぶらさないためのリピートソングだ。
その曲を、彼らが歌う。
だんだん自分たちの現状と合わなくなってきたから、と歌うことが減った曲たちもあり、その分余計に「ようやく聴けた!」と嬉しかった。
そして、その嬉しさの中で手を挙げながら思う。
どんどんと動く時代、評価、貼られるレッテル。彼らが、もう助演ではないことは彼らも私たちもよく知っている。
たりないふたりなんて下げる必要はないし、下げたら嫌味というか、「なんか違う」にだってなるのかもしれない。でもその中で、変わらずあの頃のままなのに「変わった」とされてきているものだって、あるのかもしれない。
重ねて重ねて重ねて、吐き出して生み出して形にして、でも形にした瞬間、ズレたものはなかったか。いや、形にした瞬間、というとそんなことはない気がする。でも他人の手に渡った瞬間、ズレたことはあってんじゃないか。
それは届く範囲が広がったからこそ、余計に。
今の彼らが得ているものを過剰な評価だなんて思わない。それこそ「バレた」んだと思うし、私について言えばそうだったからこそ出会えた。でも、触れるひとが側面が増えれば増えるほど届かなくなっていくことは、なんとなく想像できる気がする。
表面だけ捉えるという話でもあるし、そもそも人はその人が持ってる尺度でしか物事を見ることができない(なんなら、今こうして書いている私の文章もそんな「私の目を通した」あの時間、彼らの話なわけだ)
そうなると、触れる人が多ければ多いほどそれだけの数のフィルターが通され、元の形が分からなくなってしまうんじゃないか。
そんなことが頭の中でざわざわと過ぎる頃、まるでタイミングがあったようにかかったイントロに息を飲んだ。
それが、外側からだけではなく、内側からも向くこと。
傷付けるように解らせるように、自分たちはここにいるのだと吐いた言葉。
誰かの為ではなく、「俺の為」がなかった人たちの為の自分の為の音楽、言葉。その音楽に重ねる、重ねて上がって、その流れで、15才がデジタルタトゥーが置いていったもの、傷付けてしまったもの、変えてしまった変わってしまったものを歌う。
そのことに何度も、真正面に言葉がブッ刺さる感覚を味わう。
そこにはCaseやアンサンブル・プレイの関連のインタビューで語られ続けた「自分を削って吐いてきた言葉」のことを思い出す姿があった。かつ、そこに外野がどうこう言う範疇がないな、と思うくらい真っ直ぐで鬼気迫るものがあった。
言葉を綴ることがラップを音楽をやることが、何よりもの自傷行為であり、セラピーであること。
自分がやったことを否定しない、改心ではない。その中で言葉を重ねて重ねて。まだ、私はあの時見ていた光景を表す言葉を見つけられていない。というか、勝手に言葉にすることに怯んでもいる。
それくらい見たこともない光景だった。Rさんの言葉との向き合い方に何度も打ちのめされて、奮い立たせられてきたから余計に、目が離せなかった。
そんな中で、と歌われた2020年以降の楽曲たち。
「Lazy Boy」のなか止まる時間なんてないこと、その時間の中、得たものもあること。幸せもあること「Bad Orangez」で、それまでは見えなかったものが見えたもの。
生きて生活を続けてるだけでも立ち止まって振り返ってができないまま過ごしているのに、分刻み秒刻みで生きている彼らは尚のことだろう。その中で、むしろここまで色んなことを見つけてきた、景色を広げてきたのは、とんでもないことだと思う。
お馴染みになったのびしろのリズムで手を叩きながら、のびしろが最初、30歳になることへの哀愁も込めていたというのを思い出す。
ある意味、初めてそんな意味合いを濃く受け取った気がする。変わってしまった、あの頃の約束を置いてきぼりに生活に追われることをそれでも、と歌うこと。
まだのびしろがある、と言うこと。オトナ3文字で括らずにまだまだやりたいことがある、ということ。そんな奮い立たせるように、まだまだと口にする感覚を、知っている気がする。
そして、何よりもそんな感覚が30になる人以外にも、違う年代にも広がって届いて、明るく優しい応援歌に変わる。
届く範囲が広がったからこその景色。
思いがけない、想像も想定もしていなかった景色は、こんな美しい光景だったりするのだとたくさんの人が手を叩くのを観ながら思った。
そう思った後でも、土産話、未来予想図と畳み掛けてくるから本当に予想がつかないんですけども。
起承転結が綺麗についている物語でありながら
まだ続いている人たちのドキュメントだからこそ「ハッピーエンド」も「バッドエンド」もくれない。一色で片付けられない、その時々の見えてる面が変わる。
「俺は俺のために歌っている」とCaseで聴いたRさんのMCが私にはずっとお守りだった。今回、「ラップをすることは、生理現象であり、1番の快感」と言い切ったRさんの表情もたぶん、これからずっと忘れないんだろう。忘れられない。それを言い切って、そこに立つRさんとその隣で音楽を鳴らし続ける松永さんのことをずっとずっと、考えてる。
自傷行為でセラピー。それをすることが楽しくて苦しくてずっと続けていくことが生理現象であるあのふたりの表現のことを、ずっと考えてる。
毎度思うけど、セトリが絶妙過ぎる。セトリそのものが物語の筋で、軸でそれを色んな楽曲がMCが彩ることによって生まれる表現に私は何回、息を飲んだらいいんだ。
それは勝手に「私はこう思う」の解釈ではある。
だけど、少なくともその解釈自体がズレていたとしても構成で、曲で、パフォーマンスで、MCでその全てで彼らが「俺らの話」を届けようとしたことは紛れもない事実だ。私はその、全ての手段を持って全力で届けるという彼らのエンタメが、大好きなのだ。
生きることにガチというか、どう生きていくかを考えた時にこの道と選んだ人の苦しさと美しさと楽しさとが詰まっていた。
その2時間で浴びるには濃すぎる濃度の時間が、やっぱり私には「お前はどうしたい」と語り掛けてきたような気がする。
濃厚な彼らの俺の話を聴いてから、彼らのことを自分のことをずっと考えてる。それはまさしく「勝手に重ねてる」んだろうな。
彼らが彼らのために音楽をやっていることが好きだ。何故なら私は、彼らのために彼らの音楽を聴いていないからだ。私は、私が心地いいから、勝手に重ねたいから、彼らの音楽を聴いている。
そのことを、ずっと考えていた。
きっとこのふたりは、私たちが私がいなくても音楽を続ける。死ぬまでラップが、DJがうまくなりたいという言葉は嘘偽りなく、彼らの本心なんだろう。
私は、それが嬉しい。そうしている人がいること、そんな人が音楽を生み出していることが嬉しい。そして、そんな音楽を自分が好きだと思えることが嬉しい。
また、彼らの音楽を聴きにいくんだろうな。
5年目をいつかまた振り返った時、また彼らはこの時間のことをどう言うんだろう。これから先、どんなことをドキュメントしていくんだろう。
彼らが彼らのために作る音楽に、これからもきっと勝手に重ねながら、楽しんでいく。その時間がなるべく長く続くことを祈ってるし、きっと、長く続くんじゃないかって思っている。
だがそれでいい。こうやって生きてきた時間が積み重ねていく、それを全部肯定できるかどうか、今のこの瞬間次第なんだろう。
「だがそれでいい」で泣く日がくるとは思わなかった。そうか、こういうこともあるのか。
生きているから変わり続ける残酷さ以上にこんな景色もあるのか、という驚きが心地よくて、最高だった。
私がいなくても彼らは音楽を続けるんだろうなってことに、心底安心した。それとは関係なく、私はこの人たちの音楽を聴いていたいと思ってることが結構良いなと自分に思った。
そして、そういう中、同じ音楽にそれぞれ勝手に揺れながら、楽しいこと合法的にトぶこと、そういうことが、本当に心底、私は好きなのだ。