えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

アンサンブル・プレイ

※アルバムについてのネタバレ、勝手な解釈を大いに含むので読む際は自己責任でお願いします





Creepy Nutsが好きだ、という話をすることが良くある。好きなものの話をしていたら機嫌が良いタイプの人間なので好きなものの話を結構どこでもする(お付き合いいただく皆々様本当にありがとうございます)
そんな中、ああ、Creepy Nuts!とリアクションを返してくれる人達は多い。そして話しているとその時脳裏に浮かんでるのはそれぞれバラバラだったりする。



例えば、フリースタイルダンジョンのRさんだったり
DMCで優勝する松永さんだったり
フェスで自分たちの出番はもちろん客演でも活躍されるRさんや
バラエティで芸人顔負けのトークや身体を張った収録に参加する松永さん、
それから深夜にひたすら爆笑しながらバカ話をするふたり。



そのどれもが彼らなんだよな、ということを考えてる。




色んな顔を持つ、音楽という生業以外のフィールドでもまさしく「かまし続ける」彼らが今回出すアルバムのタイトルが"アンサンブル・プレイ"なのはあまりにも文脈的に美しくて何度も何度も、噛み締めている。




アンサンブル・プレイ、とはすなわち「群像劇」という名前を持つこのアルバムはある意味で"Creepy Nuts"という名前の空間、一つの軸で巻き起こる色んな物語を見せてくれる。そんな気がする。




まず今回、Intro・Outroが収録されている。
一体どんなイントロ、アウトロを聴かせてくれるんだろうとわくわくしながら再生して思わずうめいた。それは、彼らのライブではお馴染みの「雑踏のなか、歩く足音」だった。
もうその時点でこのアルバムの再生がイコール私の中で「ショーの始まり」を意味する。
いやもう、美し過ぎないですか?その文脈。



このアルバムに収録される曲たち、例えば2way nice guyを初め、この数ヶ月で発表された楽曲たちは所謂今までの「俺の話」を紡ぐ形ではなく、ストーリーテリングという形で作られてきたことはさまざまなインタビューで語られてきた。



自分たちやその取り巻く環境が怒涛に変わったこと、それでも変わらないもの、置いてきぼりになったもの。そういうものを一つ一つ深く深く掘り下げ、まさしく「削るように」作られたCaseから一年。
自分たちの話ではなく、フィクションの物語を紡ぐ音楽の形にチャレンジしたそのアルバムのタイトルが"アンサンブル・プレイ"で、かつ、そのイントロが彼らのショーの始まりの音なのが、もう、あまりに最高に好きだ。



そして、その直後一発目。映画「極主夫道」の主題歌であり、彼らがストレートな「俺らの曲」以外をかましてくれた2way nice guyからそのショーは進む。



私は、この曲の発表当時のインタビューが本当に好きだ。
フィクションで、自分たち以外の物語を紡ぐこと。それにもわくわくしたし、その中で自分たちの要素も滲むのだと思った。




私はお芝居が大好きだ。なんでお芝居が好きなのかは色んな要素があるんだけど、一つは生身の人間が演じることでどうしても出てしまう「その人くささ」が好きなんだと思う。
例えば「あの役者が演じると全部同じに見える」なんていうことがあるけど。それって実は凄いことだと思うしそりゃそうだし、そんなところが魅力なのだ。
もちろん、完全に演じ分ける人もいる。いるけど、その中にもその役者の目を通した世界、その人が滲む。それは悪いことではなくてむしろそれこそ、たぶん、その人が演じることの意味だと思うのだ。



話がちょっとズレてしまったけど、とどのつまり、フィクションを大好きな語り手であるRさんが紡いでいくのかが楽しみだったし、そこから見える「R-指定」の表情を見るのが心の底から楽しみだった。それは、きっと、ストレートな「俺の話」の時は見えないそれだと思うのだ。



実際、今回のアンサンブル・プレイはこんな曲もCreepy Nutsやんの?!とひたすらわくわくし続けた。すげえ。まじで引き出しが無限大すぎる。



それはリリックを綴ったRさんの世界観の広さはもちろん、音楽を作り上げた松永さんの引き出しの多さの話でもある。本当にまじで何事だよ、曲調の幅広さえぐ。
どの曲も取り上げたいけど、なんならトラック6に入ってるMadmanは本当に初めて聴いた時においおいおいおいって声が出た。めちゃくちゃ短いんだけど、曲調もこの曲順、このタイミングででいれることにいくらでも深読み要素を持ってくるし、何事なんだよ。単曲での構成力もえぐい上にアルバムの構成力もエグくて二重構造で殴ってくる。勘弁してくれ。




ここからは、いやここまでも、完全にいわゆるオタクの……ヘッズ、と勇気を振り絞って表現したいんだけど……の勝手な感傷・妄想の話だ。
Creepy Nutsの魅力は、その身近さや「俺の話」に思わず共感してしまう距離感だと思う。ラジオを聴いてげらげら笑ってるうちにまるで昔からの友達のような錯覚になり、曲や言葉を聴き込めば聴き込むほど、理解しているような、もっと言えば「理解してくれてるような」錯覚を覚える。


そんなわけないのに。



アンサンブル・プレイを聴きながらそうして見てきた色んな表情・聴いてきた言葉たちもそんな群像劇の一部なのかもしれないと思った。
それは何も悲しい話でもなくて、むしろなんだか嬉しいという話なんだけど。
かつ、よくある「芸能人(アーティスト)のどこまでが本音か」みたいなサムイ話をしたいわけでもない。



つーかなんというか、私はいつもこの手の話について考えてる時、考えれば考えるほど、いやそもそもどんな人だってお互いに完全に理解し切ること、はないし、勝手な虚像を相手に見ることも見られることも、なんなら見せようとすることだってあるだろう、と思う。
表仕事をしている人がその数がそうじゃない人に比べて想像できないほど多いこと、また、その視線が無遠慮になることは、間違い無いけど。



このアルバムを聴きながらそんなことを考えて「どれが本当」とかどうでもいいな、と思ったというか、どれも本当でどれもフィクションなんじゃないか、とちょっとわくわくしたのだ。
その線引きは意味ないというか、しなくても良くてむしろ曖昧でそれが楽しいんじゃないか、と思う。




グロテスクさも大いに含む話でもあるんだけど。
友人Aを聴きながら思う。勝手な妄想とか思い込みとその現実のズレと、願望と失望と。それはどこか可笑しくて苦くて寂しくてなんか、でも、愛おしいんだよな。




人間が生きてるだけで勝手に紡がれていく勝手に物語になってしまうことにイライラしながら最近過ごしてたから、そんなふうに思うのかな。イライラして、でもちょっとそれが嬉しい気がして、虚しい気がして持て余した気持ちを相変わらず勝手に重ねてるのか。


ひとが見たいものしか見ないなら、見せたいものだけ見て、勘違いしてそうやって曖昧にやっていけないかな。



そんなことを、考えてしまった。

その物思いも、ロスタイムがそしてばかまじめが寄り添ってくれる。

アンサンブル・プレイ、群像劇、フィクションが必要なのは現実が容赦なく色んなことを面白くなく白々しく見せてくるからで、でもそれを「そんなもん」と諦めるのも嫌だ。単なる現実逃避じゃない、また明日、まだ、まだまだ、と踏ん張るための大事な場所なんだ。





そして最後、Outroで現実へと一歩一歩、足を進めながらCaseにも収録された「のびしろ」のTHE FIRST TAKE verで締め括られる。


そんな構成にも勝手にまだまだ彼らが色んな表情、表現、"アンサンブル・プレイ"を見せ続けてくれるのだというメッセージな気がして、なんだか無性に嬉しくなってしまった。
まだ、見たことのないのびしろをCreepy Nutsは持ってるって、そういうことですよね?!




優しくて面白くて最高にわくわくするアルバムが出たぞ!!!!!!



アンサンブル・プレイ

アンサンブル・プレイ



【先着特典】Creepy Nuts/アンサンブル・プレイ<CD>(ラジオ盤)[Z-13294]20220907
[楽天] #Rakutenichiba