えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

表現をすること触れること

去年から何度か「Twitterからしばらく留守にします」と呟くことが増えた。
一度何も言わず全ての更新を止めたら「とうとう倒れたかと思った」とあっさり友人に言われたのでさすがにそれはなんかやだな、と思い、留守にします、は呟くようにしている。



自分の言葉がどうしようもないことのように思える時がある。
Twitterは所謂「脳直」でやれてしまうツールだからかもしれない。そういえば昔、携帯とパソコンでツイートすることの違いについての文章を読んだことがあって、きっとそこで書かれていた感覚に似ている。
苛立ちややるせ無さが溜まりに溜まって、それを発散するようにツイートしていると今度はその言葉に自分が傷付きだす。すっきりするためにやっているそのことに、自分のどうしようもなさを突き抜けられる。
結局どこまでも自分のことかとこれも呆れはするけれど、だから、時々、私はTwitterを留守にする。
たまにTwitterがしんどいなら鍵をかけることなども提案されるし実際、鍵をかけたアカウントも持ったりもするけれど、結局自分の言葉にうんざりしているので、きっと鍵の有無は私にはあんまり関係ないらしい。


何度かTwitterを留守にしながら、その期間自分が何をやるかの傾向がみえてきた。
自分の言葉にうんざりして留守にしたくせに、私はこのTwitterから留守にする期間、ひたすら文を書く。
ブログを書いてるメモアプリを開いて思いつくままに何個もの下書きを増やす。
その上それは一つ一つを書き上げるんじゃなくて、思いつくものをひたすら、だ。
途中まで書いて別の話が書きたくなったらまた別ファイルを作り、そうしていくつものファイルを反復横跳びしながらひたすら文を書いて書いて書く。


そうすると、なんだかようやくスッキリする。
ブログに公開できる形になるものもあるし、ならずに500文字にもいかない半端な下書きのままひっそり眠ってることもある。



タマコウさんのG.O.T.Oというアルバムがすごい。
すごい、と言うとシンプルになるけど、なんというかともかく、物凄く好きだ。


HIPHOPという言葉を重ねる音楽がどうやら私は好きらしい。
特にこのG.O.T.Oは最初の曲が喋りから始まる。喋りが始まった、と思えばそのあと高速でリリックが重ねられていく。
五島とは、長崎の島である。
九州の熊本出身だからなんとなくぼんやりとしたイメージはあるけど、行ったことがあるかと問われると自信はない。
だからリリックのなか歌われる五島の光景はほとんど歌詞から受け取った勝手な妄想だ。
だけどなんとなく、にやにやしながら聴いた。そこの生活をいいな、と思いながら分かるな、と思いながら、自分を空想の中、そこに置いてみる。


そうやって少し俯瞰したぼんやりした気持ちで聴いていたのが、ある曲で完全にぶっ飛ばされた。


「わからない」という曲が好きだ。
聴いて、思わず歌詞を検索し、出てこないことにうっわ!と叫び巻き戻して集中して聞き直す。
わからない、とその曲の中、タマイコウスケさんは歌う。友達の作り方、彼女の作り方、お金の稼ぎかた。わからない。


HIPHOPは「俺の話」をする音楽だ。



Creepy NutsをきっかけにHIPHOPに興味を持ち、そのラジオでいろんな曲、アーティストを知ることになった私の中でそれは当たり前に染みついた感覚だ。
いろんな人がいろんなビート、技術を使い、あの手この手で「俺の話」をする。私はそれが好きだ。そして私はその「俺の話」に勝手に「私の話」を重ねてしまった時、ノックアウトされるんだと思う。
それでいくと、このわからない、はど真ん中にぶっ刺さり、気が付けば何回か曲が終わるたびに振り出しに戻して聴き、振り出しに戻して聴きを繰り返していた。
このままだとアルバム聴き終わらねえと思いつつ、一曲だけひたすら聴く聴き方だってありではないかと迷ってとりあえず、と思って流した次の曲が「良く死のう」でこれまたぶん殴られた。なんならちょっとそういうのやめて欲しいとすら思った。


私には良く死ぬ方法が分からない。
それは良い自殺方法なんて話ではもちろんなくて、いやもしかしたらそれでも良いのかもしれないけど、どちらかといえば「生きてて良かったね」と思えるような死に方が分からないのだ。そしてそれは生き方自体も"わからない"のだと思う。
わからないで、あるいは良く死のうで重ねられていく歌詞にそんなことを思い知る。
わからない、本当に。だけど生きていくしかないから時々うんざりする。



最近、いろんな音楽、芝居、表現に触れるたびに思う。何かに怒るように悲しむように喜ぶように作り出す人たちのことをずっと考えてる。


子どもを残すことか偉業を残すことか、何をすれば名前を残すといえるのか、そうしたら「生きた甲斐」はあったと言えるのか。満足するのか。


わからないから、とりあえず作る。作って作って積み上げた先、見えるものを見ようとする。
ひとつの仮定としてあるいは、何か問題を解くように。
作品を生み出すということは、そういうことじゃないか。
生きていくというどうしようもない理不尽をなんとか飲み込むためにあるんじゃないのか。



そんなものはないし、勝手な感傷に巻き込むなと怒られるかもしれない。確かに私のやっていることは勝手な自己投影であり、消費である。多分間違いなく、そうなのだ。



R-指定さんが大満足を流して、DJ松永さんが良く死のうを流したのが、なんとなく、ああ分かるな、と思うしこの2曲があのラジオで流れたことが私は、無性に、嬉しい。
そして、私にきっと流せるラジオがあったならたぶん、わからないを流したくなるような気がしているのだ。


以前観て感想を書いてなかった作品、モヤモヤを晴らすために観たり聴いたりしたものへの感想、日常のなか街を歩いていてどうしても考え続けてしまうもの。
そういうのをひたすら書いて書いて書いてしていると「あ、もういいや」と落ち着く。
私の好きなR-指定さんが去年、Caseというアルバムを作る際、文を書くことはセラピーで自傷行為だと言っていたけど確かになあと思うのだ。
それが何というわけでもないけれど、こうして文を書けること、書く場所があることはかなり
ラッキーなのもしれない。以前友人に言われた「言葉は出さずに内側に置いてると内臓を腐らせるよう」という言葉を思い出す。たぶん、あの時も今も、私もその言葉の通り、ひたすら言葉を書いているんだと思う。



そして、そんなふうに作られた何かを観て聴いて心をぐちゃぐちゃにシャッフルされた時、すごくすごく、嬉しくなるのだ。それこそ、生きてて良かったとほざきたくなるくらいに。


良く死のう

良く死のう

  • タマイコウスケ
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥204