えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

たりない僕らは情熱を求める

たりないふたりのことはずっと気になっていた。Creepy Nutsにハマり、たりないふたりがなければ、松永さんがメディアでラジオについての気持ちを口にすることはなかっただろうこと、「例のふたりと重ねたたりないとこ」と土産話で歌われたユニット。そういうものから「ああきっと好きだな」と思って、思えば思うほどに私には観るハードルが上がっていった。




ある意味では、私のこういう性格は私の「足りない」部分かもしれない。
好きな人が好きなものを知ろうとするのが怖い。それがドンピシャに刺さったとして、あるいは刺さらなかったとして、「スカしてないか」を自問自答してしまう。それが、ものすごく辛い。だから近付かない。近付かない時点でめちゃくちゃ意識しまくっているけど、私にはそういうところがある。





それがどうしてこうしてたりないふたりに纏わる文を書こうとしているかというとそれはもう「だが、情熱はある」効果に他ならない。





南海キャンディーズの山里さんとオードリーの若林さんのコンビ、「たりないふたり」を軸に彼らの学生時代から今までの人柄、出来事を掘り下げて描いていく。




なまじ、Creepy Nutsが間接的に関わっているためかこのドラマについては始まる前からいろんな人の感情がタイムライン上に表示されることも多く、1話を観る直前までは「配信でいいか…」とも思っていた。ただ、放送のその瞬間「人の感想に触れてから観るの勿体無いな」と思い立ち、慌ててテレビを着けた。





その日から、私の頭の片隅にはいつも「たりないふたり」が、「だが、情熱はある」がある。




そもそもこの「たりないふたり」とは、飲み会が嫌いで、人見知りで、恋愛下手で社会性がないと言われる……かつ、それが共通点である違うお笑いコンビを組んでいるふたりがトークと漫才を織り交ぜたバラエティである。
飲み会を回避するための小技を語ったり都度のテーマで世間に中指を立て面白おかしく笑いを取っていく。




ところで、そんな「たりないふたり」についてちゃんと知る前にぼんやりとした印象を持っていた。それは若林さんが星野源さんのオールナイトニッポンにゲスト出演していた時のこと。その時語られた言葉が強烈に印象に残っていたのだ。




「足りない側で集まって結束しようよ、なんて一切思ってないし」
「むしろ俺は足りないと思ってない」
「俺が一番足りてると思ってる」



その前後の会話が本当に好きで、それこそ、その会話の中で語られた「俺はずっと普通だよ」という言葉を私はずっと、そうだよな、と思っていた。うまく「世間」とやらが規定するものとよしんば……じゃあ、ズレているとして、それをただそことズレているだけで「違う」という「たりない」と言うそういうものをずっと考えていたし、未だに考え続けている。



それを「ああそう違うんだ」と「そうですか」と受け止め淡々と、でも決して折れずにかと言って結託したりせずにそのまま、ただそのまま過ごした若林さんの(そして源さんの)話を何度繰り返し聞いたか分からない。




その私にとって、たりないふたりは、見初めて心地よく、何度も唸ってしまうような仕掛けもあって、気が付けば大好きな作品になっていた。
確かに彼らは自分の足りない部分……世間からのズレを笑いに変える。だけどそれをおかしいとも改めるべきものとも一度もせず、ただただ、そのままにしていくのだ。



なんだかそれがずっと居心地良くて面白くて、そっから観た「だが、情熱はある」では、ストレートに真正面から食らってしまった。



何者かになりたくてなる自信もなく、なれるかも、と思ったら最後、なれなかった時どうする、と臆病風にも吹かれる。でもやっぱり「ズレている」の体感はあって。



「だが、情熱はある」を観ている時のあのヒリヒリ感は、一体なんなんだろう。
彼らはふたりとも今や「たりない」ふたりなんかではなく、成功していて、だからこのヒリヒリは、それへの嫉妬かと言われると自信を持って違うと返せる。
それとはまた関係なく、ただなんだか覚えのある焦燥感にやられそうになる。なんだろうこれは。もがく彼らに共感する。でも「お前らはでもこの後成功するだろう」という妬みは生まれてこない。





そういえば、1話からこのドラマは解散の時のライブのシーンを度々見せる。そもそも、ドラマのストーリーラインは3軸構成だ。山里さんのシーン、若林さんのシーン、それから解散公演後のシーンと見せる構成になっている。
それを思うとこのドラマが単に「足りない2人が成功する物語」としての成功譚として見せようとしてるわけではないのは、間違いないとも思う。





成功譚で見せるなら、あの解散ライブやその反響は物語のトリにあると思うのだ。





でも、そうではなく、彼らが生きている道筋と一緒に、このドラマは、あの解散ライブとその後を描く。




その様子を見た時、思ったのだ。
私が「たりないふたり」が、「だが、情熱はある」が好きなのはこういうところかもしれない。



成功譚でもなく、もっともらしい教訓でも、共感とそこからくる癒しでもない。
描かれているのは、ただただそこにいる、ただの人だった。
今じゃ世間からズレてるなんて当たり前なくらいありふれてて、だというのにいまだにその「ズレている」という居心地の悪さはなくならない。本当にあるかどうかもわからない「当たり前」や「普通」に息苦しさを覚えながら、私たちは生きてる。




たりないふたりはそんなものを笑い飛ばして知るかばーかと言い放ち、でもただ、そのままそこにいるのだ。良いとか悪いとか正しいとか正しく無いとかではなく、そのまま。
たりないふたり」の最終回で語られた通り、彼らは、戦わない。戦わずにただただ、そのまま、そこにいる。




大袈裟な話をするなら、そういう姿を見てなんで生きてるのかというのが腑に落ちた気すらするのだ。



なんでこんなにも多くの人が、「たりないふたり」が好きなのか。そこから曲が生まれ、こうしてドラマが生まれているのか。



それはそこに生きる山里さん、若林さんが、飾ることなくそのままだったからかもしれない。過度に良い人なわけでも無いし、同時に破天荒でどうしようもないわけでもないひとたち。
じゃない方、なんていう心無い言い方までもあったらしいけど、私からしたらもう十分「である方」だ。




スポットライトが確かに、分かりやすく当たる人たちじゃ無いかもしれない。だけど、彼らは自分で「なら」とスポットライトを作り出してしまう人たちだ。しかも、無茶苦茶な方法じゃなくて地道で意味があるかどうかも分からない、ただ、自分たちが信じた道を積み上げて。




だから、自分だってとつい思ってしまって、いや「思いたくなってしまって」私はきっと、「たりないふたり」や「だが、情熱はある」を観てるとヒリヒリするのだ。
それは、決して「これくらいのことなら」と簡単に見積もっているわけじゃない。
むしろ、いつかの分かれ道、自分が「楽な方にしとこう」と選んだ道の逆側、茨道で獣道な方を選んだ人たちの物語だと感じるからこそ。
その彼らが今ドラマで、あるいは「たりないふたり」の初期で思っていたところからどんどん明るい道へと進んでいくことは知っている。ふたりの顔つきがあの頃と見比べて今、随分柔らかくなったことに再生するたびに嬉しくなる。だけど、彼らが行き着く先はどんなものかはわからない。それはきっと生きている限り、彼らが紡ぎ続けるものなんだろう。それを含めて、心の底から嬉しく、この作品たちを好きだと思う。