えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Missing 混血のハッシュタグ

すごく今更だけど、Missing 混血のハッシュタグの感想を書こうと思う。書こうと思うんだけどいかんせん、「今更」である。
3月の上旬に上演されたENGの「Missing 混血のハッシュタグ」。もう気が付けば1ヶ月、なんなら2ヶ月弱過ぎてしまっている。
ただ感想が、と思いながらでもきっと私があの作品について語る時って「感想」にならないんだよな、と思い立つ。

細やかな感想だとか、合ってるかどうかは確認できないままだし、全部、全体を俯瞰しての感想というよりかは、あることをずっと観終わってから数週間経った今も考えているのだ。




ダリは本当に悪かったんだろうか。
いや、悪かったんだけど。あとこれ難しくて、私は演じている高田淳さんがものすごく好きなんですよ。なので「推しだから肩入れされてる」と言われるとすげーやなんですね。普通にただただ私の価値観を持ってダリって悪かったのか?を考えているのに、いやでも本当に絶対そうか?実際今回も淳さんのお芝居は素晴らしくて、大きく見えたり小さく見えたりその心理上の動きが体格にまで影響してるようで、と思うとあれやっぱり推しが演じているから好きになったのか?とまた立ち止まってしまう。だから悪く無いと思ってるの?




とはいえ、やっぱり何度もいやでもさあ、と思ってしまうので、文にしてまとめてみたいと思う。



舞台はイーターと呼ばれる人を食べるようになってしまった「ひと」が蔓延る世界。その根本には父親から暴行され、満たされなかったある少女の思いがある。というのが描かれた前作に引き続き、でも観なくても分かる作品として作られた「Missing 混血のハッシュタグ」。
そんな世界で私が冒頭から描くダリは弱いひとだ。弱く、周りから受け入れてもらえず、それでもそんな中、アンジェラに出会い、子どもをもうける。

アンジェラは神さまみたいな優しくて賢い女性だ。その人とお腹にいる自分の子どもとを連れて、イーターから逃げ惑うダリ。その中で、きっと守ってほしい、守ると口にしながらダリは咄嗟にアンジェラとお腹の子を突き飛ばし、自分だけ助かろうとしてしまう。




いやまあ、こう書くとやっぱり、ダリ、ダメなやつだし、悪いんだけど。
結果的にアンジェラはイーターに噛まれ、「イーター」になるんだけど、自分は良いからこのお腹の子だけは助けて欲しいと懇願する姿に、その「他人への貢献」に、そもそものきっかけである少女に見初められ、正気は保ちながら(つまりは自分で「食べたい」という欲求と戦うことになるわけだけど)過ごすことになる。

このことによって、いよいよアンジェラは神さまに近づく。
そして、同時に自分の妻と子を差し出してしまったダリは少女から「自分の父親と一緒だ」と謗られ、噛まれ、食べたいという欲求、全部を自らの手によって失くした飢餓感に一生苦しむ「灯台の化け物」にされてしまう。



たぶん、私がここでまずピンときていないのかもしれない。
確かにダリは最低である。アンジェラが、あるいはその娘のタルラが、ダリを責めるのは分かる。そりゃそうだ。
でも少女が、「自分の父親と同じだ」と言うのがどうにもしっくりこない。いやだって、少女の父親が負けたのは「性欲」である。ダリはただ、「生きていたい」と思っただけだ。「死にたくない」と思っただけだ。
それは、果たして自分の欲に負けて自分の欲に従って、と同じとされなければいけないことだろうか。



生きたいと思うことは、ダメなことなんだろうか。




でもアンジェラの「私はあなたを許さない」にそうだよな、したし、ダリが欲しい言葉はあなたは悪くない、でもないんだよなとも思う。



そしてダリが悪いのか、生きたいと思っただけじゃないか、と考えれば考えるほど、でもこの世界では、ただ生きているだけを良しとしないのだ、と洞窟の中、工夫して生きていく人たちを思い出しながら思う。



タルラを初めとした子どもたちは特に「違う」を当たり前として、知ろうとして、進もうとし続ける。
大人たちもなんとか工夫して「生きよう」とする。大切なものを守ろうとする。




恐怖や欲に負け、抗うことや知ろうとすること、進むことを諦めない。
そう思うと、確かに、ダリは化け物なのだ。

本能が、弱さが、生きたいと言った結果、全部を失くしたんだとして苦しむしかないし、本能だから、生きたかったから、大切なものを傷付けたらそれはもう「怪物」だし、だめなんだろうな…。それは本当にかなしい。かなしいけれど、そうでなくあろうとする物語筋の結果なのだとしたら、それは、ある意味で優しく、逞しいのかもしれない。



本能ではなくて理性で、弱くてでも助け合う生き物を人間というなら、ダリは決定的に「間違えた」のだ。
灯台の怪物が可哀想なのは「異形」になったから怪物なんじゃなく、「ひと」の時に「ひとでなし」なことをしてしまったから、「怪物」だったからなんだろう。弱かったからダメだったのだ、という話ではなく。弱くても、助け合いながら生きていく、そういう中で、自分の弱さにああして飲まれてしまったなら、それはもう、助かりようが、なかったのかもしれない。



最後のダリの殺陣が、手を伸ばし合ってるように思えて私は小さい画面を眺めながら泣いた。どこでどうすれば、と思う。そのどこで、がダリ自身が自分に負けた瞬間であることを思って、やっぱり更に泣いた。




ここ最近のENGさんの作品が個人的には「でも人間は良いものだって信じたい」「エンタメができることはあると信じたい」というメッセージであるように思えてならない。
そしてその中で考えるとやっぱりダリは間違えてしまったし、その姿がその結末が、こうであることはその分より強烈な「良いものだと信じたい」だと思うのだ。そしてそれをエンタメという物語で見せることはいつか、自分が決定的に間違えてしまう時に踏みとどまる何かになるような気もしている。




そういう意味で、この物語のタイトルでもあり、ラスト、タルラたちが口にする記号が「ハッシュタグ」であることが、私には素敵に思える。



繋がるであり、見つける、でもある。すっかり馴染み深くなった誰かに見つけてもらうために発する記号があの作中ああして繋がっていくのはすごく美しかった。





繋がりを自ら、自分を優先して一の点になってしまって切ったダリのことを、でもそうして生まれたタルラが繋いで行った先のことを、私はこれからもきっと思い出す。