えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

スパゲティ・コードラブ

Twitterが好きだ。
情報を集めるためにもやってるけど、それよりむしろ私は自分の好きを集めに集めて作り上げたタイムラインが流れていくさまを見るのが好きだ。
今日も何処かで誰かが生きて笑って美味しいものを食べ、好きなものの話をしている。
そんな景色をただぼんやり見るのが、たまらなく好きなのだ。


スパゲティ・コードラブを観ながら、そんなTwitterみたいだな、と思った。
群像劇というのが一番近いんだと思う。


「この人はこういう名前でこういうことをしているこんな人です」


そんな分かりやすい説明はなく、
ただただ画面には彼らの言葉が流れてくる。
その断片からなんとなく彼らを知るだけだし、
知ったけどあくまで"知った"のはその表面、
彼らがそこに映し出したものだけなんだろうな、と思わせる。


それは映し出されるのが断片というのもあるけど、時折交わった他の誰か、から見える世界が
さっきのシーンで本人が言ってたものとがらりと違うものになったりするからだ。



写真を仕事にしている彼の苦しみを、憧れる彼女は知らなかったし
好きな人のお嫁さんになりたいと言う彼女は彼の気持ちがどこにあるかを見ようとしなかったし
こんなみっともないこと知られたらと思いながら占いに縋る彼女は隣人が自分の声を聴いてることを知らなかった。


ここで挙げきれていない数の登場人物たちが交わったり交わらなかったりしながら、映画は進む。

そして観客である私たちは目の前、起こる出来事しか知らない。だけど、気が付けば、そんな人たちのことが大好きになっていた。



いや、大好きというのは大袈裟でちょっと目が離せなくなった、というべきかもしれない。
なんせ、大好きというには私は彼らを知らないのだ。
嫌なやつだなと思う瞬間もあって、愛おしく思う瞬間もあって、ただただ、目の前の光景から目が離せなくなる。



それは"表現したい"ひとたち、表現すること、が、たくさんいたからかもしれない。
イタい、と言いながら思いながら、彼ら彼女らは表現する理由を承認を求めてだという。


承認欲求。
それは、Twitterでも度々話題になる。
何かを創作する理由が承認欲求であることを嗤い、バカにし、でも憧れたりする。
創作活動が崇高なものだなんて思ってないけど、でも、承認欲求だからくだらない、と言われると苦しい。
それでも、好きなことは止めたくない。何かを作りたい。意味があるなんて思い上がる気はないけど、やめられない。


そんな気持ちをぐるぐると思い出した。



それは分からないながらに、みんななんだかしんどそうだな,と思ったからかもしれない。
イージーモードだと言う人も出てきたりはするんだけど、みんな一様に寂しそうでちょっと苦しそうだ。
疲れた顔をすることもある。
それはある意味、私が街を歩きながらよく見る光景でもあるのだ。



何かを作ってても作ってなくても作れなくても。
みんなが一様にそんなもんだと思って諦めて、諦めきれずにもがいてる。



今日も何処かで誰かが生きて笑って美味しいものを食べ、好きなものの話をしている。
そんな景色をただぼんやり見るのが、たまらなく好きなのだ。


そう言ったけど、Twitterに流れてくるのはそれだけじゃない。
どこかであった悲しいこと、自分の好きなひとに起こった理不尽や将来の不安、行きすぎた自意識。
ノイズのようなそれが流れてくるのもまた、Twitterだ。そして街の中だ。私は何度も、SNSや街中、テレビの中で、ああ本当に人ってくだらない、最低だ、と思ったことがある。


ところで私はハッピーエンドが好きなので、
映画や物語を楽しむ時、そこにいる人たちがどんな形になればハッピーエンドだろう、と考えることが結構ある。
そういう意味で、この映画がどうなれば私は"ハッピーエンドだ"と思えるだろうか、と考えていた。

劇中、何人かが口にした通り、画面の中、映し出される覚えのある感情は苦しくてままならなくて、でも、泣き叫ぶほどの悲劇にもなってくれない。だからこそ、しんどい。
生きてるのはいつだってくだらなくて、みっともなくて惨めで苦しい。


だとしたら、生きている、という時点でもう、彼らが幸せになれることはないんじゃないか。
生き続ける限り、ハッピーエンドなんてものはないんじゃないか。
そんな息苦しさを何度も覚えた。なんで生きてるんだろうと軽く口にするテレビのなかの人々に何でだろうねえと呻きそうになった。


一体、この人たちはちゃんと幸せになれるだろうか。生きてて良かったと言えるだろうか。
それは、ほんの少し、自分勝手な気持ちも含まれてる。


だから、映画の中、思いもしなかった光景たちのことが、いま、頭の中でぐるぐると回ってる。
そんなことがあればいいと強く強く願ってる。
そしてきっとそれは、あるはずなんだ。
だってこんなふうに、この映画に私は実際いま、出逢えてるんだから。


だから私は、ひとりでも多くの人がこの映画に出会ってくれたらいいな、と思う。



最後に。
映画の中のひとびとが、これからも自分の道を進みますように、と願ってる。特に、写真を撮る彼やギターを弾く彼女、広告を作る彼女が。
そしてそんなひとひとじゃなく、日々を生きるそれ自体が"表現"だと思うから、やっぱりあの映画に出てきたひとたち、みんなが、思うままに生きていけますように。


イタかろうがわりに合わなかろうが惨めだろうが表現しようとするのは、考えるのは、言葉にするのはそんな"生きていくこと"への猛烈な怒りがあるからじゃないか。
少なくともたぶん、私はそうだ。