えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

推しとか結婚とか人生とか幸せとか

※以下全文個人的な私による私のための文です。だからこれが正しい!ということではなく、あくまで私はこう思ったので残しとこーの文なのでライトにお読みいただけると幸いです。




結婚を祝えないと思っていた。



リアコだとか捻くれた結婚願望とか嫉妬心とかではなく、ただただ、自分は、星野源という人の結婚を祝う自信がなかった。
私が星野源という人に強烈に惹かれたのは志摩一未というMIU404の役柄が大きかった。そして、そこから出会ってきた彼の生み出す音楽や文に払いきれない寂しさや苦しさを見たからだった。



去年、どうして生きてるんだろうとぼんやり朝焼けを眺めてる日々があった。だからどうということもなく、延々とどうして生きてるのか、結局死ぬのに生き続けることのどこに意味を見出せばいいのか、というのをわりと真剣に考えていた。
そういうことを言うと「病んでる(笑)」と言われるのかもしれないけれど、むしろそんなつもりはなくて、空が青いなあくらいの当たり前さで考え込んでいた。
だいたい、そういうのが気になる周期って人間あると思う。
ともかくそんなことを考えて考えて、あんまり考えすぎるとしんどいなあオチも結論も見つからないし、考えるの止めようかなあと思っていたある日、源さんのエッセイの中で、ある文章にであった。

「死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。」

ああ、そうかと思った。
諦めにも似た、でもなんかスッキリした気持ちになった。だとしたら生きなきゃいけないなと素直に思った。頑張って頑張って、その先にしかもらえないものなのか、というのは一つすっきりと私の心の中に納得というかたちでおさまった。


私は、源さんのそういうところに初め惹かれたんだと思う。だからこそ、結婚を喜べる自信がなかった。



自分のことを棚上げになんてしんどい仕事だろうと思う。歌手であり、役者であり、文筆家である彼の仕事は否応なく人の心を動かす。それは確かに彼の仕事の範囲かもしれないが、そこから先、結婚だ何だの心根の部分というか、パーソナルな部分について何かを言いたくもなかった。
しかし、そう思う一方で、どうしたって祝う自信がない私がいた。


それはもう120%のエゴで我儘で身勝手な感情だ。
当然ながら、他人に対してとやかく言うつもりはない。というか、他人の心の内がどんな風に動くか分からない以上、そこに私の言葉を挟むつもりも挟みたいとも思うわない。



それを1番ハッキリ自覚したのは、「箱入り息子の恋」を観た時だと思う。
うまくいかないままならなさの中でもがき怒り、泣く姿に胸がスッとして、スッとした直後、物凄く自分の感覚にゾッとした。
寂しさの代弁者を任せているような罪悪感が湧いた。
もちろんその表現は星野源という人の魅力の一つだと思う。絶望や孤独は、その人のチャーミングさだということにも頷く。
だけど、それに自分の身勝手な感情をのせて消費してしまったような感覚にすごくいやになった。それはなんだか、違うような気がした。
寂しさに惹かれたのは事実だけど、それだけじゃないはずなんだ。むしろそれだけだったならこんなに好きにはならなかったんだと誰に言ってるかわからない気持ちが渦巻きながら、映画を見終えたことを覚えている。
しかし、それでも結局そこで苦しくなったのは、そんな自分を否定しきれなかったからだ。


それから一度、真剣に結婚をする時がいつか来るのかもな、と想像してそれを「いやだな」と感じてしまった自分への嫌悪がずっとあった。置いてかないで欲しいという意味のわからない身勝手な感情こそ、どこかに置いてきぼりにしたかった。歌や芝居や、文だけを楽しみたかった。
寂しさに惹かれたけれど、それ以上に源さんの生み出すものは面白かった。ワクワクした。だから、そんなところに共感してしまうことが先立つのが嫌だった。


だからこそ、今日のツイートに「あ」と思う。心臓が大きくはねる。見るのを止めようか、と一瞬迷って、でもここで見ずに内容を知ることになれば、より、辛いだろうという予感があった。
多くの「オタク」がそうであるようにタイトルにビビり、1番恐れている活動を休みます、とかではないはずだ、昨日だって元気にラジオで話してた、と内心言い聞かせながら、おそるおそる、インスタを開く。




文字を、1文字1文字丁寧に読んだ。
何を考えてたのか、覚えてるようで覚えてない気もする。ただ、心の底から湧いてきたのがうれしい、という4文字で面食らった。
あ、あ、あ、と動揺しながら、紛れもなく、嬉しい、と思った。
どうしよう、どうしようと1人自分の部屋でパニックになり、なんなら「え、あ、私嬉しいんだ?!」と自分の頬をつねった。
いやーーーーもう、なんか、嬉しかったんですよ。
嬉しい、と思えたことが、ものすごく、嬉しくてちょっと泣いた。
泣きつつも、「いやこれ私、嬉しいって思おうとしてないか?」と自分を疑う気持ちも否定できなかった。


だってさ、好きな人の幸せって祈りたいじゃないですか。
好きな人の幸せを嬉しい!って思える人って素敵じゃないですか。
こちとら、推しの結婚が初めてじゃないですからね、そういうのもあって「今私は"良いファン"でいるための努力をしてないか?」と自問自答をした。



して、これはラチがあかねえな、と地元の友人に連絡し、電話で話をしてもらった。わりと最低な自分の言動を見慣れてる友人だし、喋ってる中で何が飛び出しても大丈夫だと思った。

話して、話して、やっぱり無理に祝おうとしてないかって検証して、源さんの新曲や、昔の曲やラジオやバラエティでの言葉の話をして、しながら


やっぱり、私は嬉しかった。


その中に寂しいという気持ちはあった。幸せになるのか、という気持ちもあった。でも、同時に出会ってこの一年、源さんの活動に触れたことを一つ一つ思い出してると、大丈夫か、とも思った。


源さんが、孤独や絶望はなくならないとはっきり言うところが、たまらなく好きだ。
どこまでも寂しさや孤独はなくならない、苦しい年の次にくるのは、やっぱり大変な年なのかもしれない。
そう言われることにホッとしていた。それは諦めがつく、というとちょっと違って、むしろそう思うことでそんな毎日でも好きになれるきがしたのだ。そう思うことはだんだんと静かに私の中に何かを積もらせたのかも知れない。

楽しいと思うこと。1週間に一度、源さんのラジオを聴くためだけに開いていたradikoでいつしか聴く番組が増えた。
好きな音楽のジャンルが広がり、ドラマや映画も色々と出会った。
どうしようもない、の中で楽しいことをする。面白いことを見つけて、それを心の底から楽しむ。
初め、源さんを見て良いなあと思ったことを、気が付けば私は真似し始めていた。そしてそれは「そうすれば、寂しさはなくなる」と思ったからではない。
きっと、それがこの地獄でやっていく方法だと思ったからだ。
そして、そうできるこの地獄という場所は存外悪いところでもないと、思えたからだ。



そして、そんな話を聴いてくれる友人がいた。
結婚が嬉しいこと、こんな表現に惹かれたこと、この考えにスッキリして共感したこと、こんな面白いことをする人なんだという話。
話せば話すほど尽きなくて、なんなら源さんの話から結局脱線したり、また戻ったり、ともかくひたすら楽しい話をした。


しながら幸せなことと寂しいことは両立するのだ、とその時唐突に理解した。
源さんがいつか、どうしようもない気持ちになった時深夜に洗濯機を眺めると言っていた。それを、じゃあこれから結婚したから眺めないか、と言われると、別に眺めても良いんじゃないか、と思う。
結婚が幸せの必須条件でもないし、そこで洗濯機を仮に眺めたとして、それは幸せじゃないという話でもない。


私は結婚はしてないけれど、こんな人によっては「どうでもいい」と言われそうな「イタイよ」と笑われそうな話を真剣に聴いてくれる人がいるんだな。そして、そういう人と今までたくさん楽しいことをしてきたな。

推しがとか最早関係ないけどふと通話中そんなことを思った。え、やべえ、私ものすごく幸せじゃん、とそもそもの通話の目的を忘れてニヤニヤした。



そして、そうか、と思う。なんにも変わんないわ。



生きてて、明日もしかしたら嫌なことあるかもしれないし昨日の最低なこと思い出してあーって叫ぶかもしれないしかと思えば、明後日最高に幸せで飛び跳ねたくなるかもしれない。1週間後、夢みたいな出来事が起こるかもしれない。
いつも、生きてる限りそういうどっちに転ぶかわからない日々を私たちはそういや過ごしてるのだ。
その中で、一緒にいたい人がいるというそのことを、こうして聴くことができたことはなんて幸せなんだろう。別に、それを絶対に公表するべきだ、なんてことではなくて、幸せのお裾分けのような、そんな柔らかなものに触れた気がして、
そうかだから、私はあの時、嬉しかったんだな。


私は、星野源が結婚したら苦しくなると思っていた。
寂しくて、ああ、あなたも幸せになるのかって遣る瀬無くなるに違いないと思っていたし、それは確信に近かった。

だけど、それすら飛び越えて嬉しいという感情がやってきた。これだって、私には予期せぬ「生きてるから起こった」ことだった。
おいおい、まじで人生面白いな。飽きてる暇がないじゃんか。
本当に、こんなことを体験させてくれる"推し"という存在は、私の人生の中で本当に大きな意味がある。そして、そんな素敵な彩りをくれる人の明日からの毎日が、1分1秒でも多く幸せに溢れてて欲しいと、心の底から思うのだ。
私ももう、負けないくらい幸せに過ごすので。