えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

コントが始まる 6話

こんなに内臓を焼きながら観るドラマがあるだろうか。毎週、呻き倒して観ている。


キャスト陣を確認した時点で楽しみで楽しみで仕方なく、またきっと観ながらのたうち回るんだろうな、とわくわくしていた。


コントが始まる。それは、土曜日という個人的には仕事で自分をミキサーにかけまくりしんどさでノックアウトされかけている曜日に放送されるドラマであり、それでもどうしても観たいとテレビをつけてしまう不思議な魅力に溢れたドラマだ。



このドラマは誰も彼もが魅力的だ。それは、登場人物たちが特異的な魅力、性質を持ち合わせているというよりかは、どこか「ああ私だ」と共感できるようなむしろ、平凡性……それはつまり、芸人として売れるという「特別」になれなかった人々だからだということもあるだろう。
だから私たちは、いや、私は毎話毎話、画面に映るいつかの誰かに心を寄せる。
そんな中、6話で春斗を見た時、不安が胸をよぎった。


5話の終わり、保留にされていたマクベスの解散がもう一度確定したものになり、それぞれが「終わり」へと歩き始める。中浜姉妹もまた、同居解消という「終わり」へ。それらは、終わりというよりも、「変化」という方が正しいかもしれない。
物語の中心は潤平と奈津美の話だ。芸人を辞め、結婚を考えるかと思われたふたりは一変、別れの危機に直面する。
何かがダメだった、というよりかは少しずつボタンがずれるというか、スイッチが押されてしまう状態。何かが嫌だというわけじゃないからこそ、危ういバランスでそれこそ「終わり」に傾いた状態。
このふたりの関係の描き方、展開もそれはもう最高で語り出したら止まらないのだけど、私がここで話したいのは春斗についてなのだ。



春斗はふたりが付き合う時も一役買っており、また今回もふたりがこれからも一緒にいるために行動する。


それは奔走する、という言葉を使ってしまえば途端にズレるようなそんな行動である。だけど、確実に1になる行動でもある。
大人になるなんて簡単なんだよ、という台詞に心を打たれながら、でも、やっぱりざわざわとした不安がずっとあった。
手放してくれるな、それは手放すのは簡単ででも、今……それはつまり、生活に飲まれ現実に負けて、いや同化していく「三十手前」の今、もう二度と手に入らないものだと春斗は言う。
それは、本当にそうで、でもほんの少し違うとも思う。
失くしたと思った青春時代の無邪気さは今も(マクベスの彼らと同世代の私の今)時々ひょっこり顔を出すし、
あの頃ただ無意味に消費していたことを考えると噛み締めているいまこそ、本当は手の中にあると言える気もしている。
そしてそれは何も私個人で完結する話というよりかは、マクベスたちの日々も、同じように続いてる、と思うのだ。


話がずれた。



春斗は、リーダーだ。
マクベスを作った張本人である。彼がお笑いをやりたい、と言ったからこそ、あの十年がある。もちろんそれは、ニ話で潤平も瞬太もそれぞれが言った通り「この選択は間違っていなかった」選択で、自分で決めたことだ。
だからマクベスの十年を春斗が背負う必要はない。一切ない。というか、背負おうとするのはふたりにとてもとても失礼だ。驕りで、傲慢だとすら思う。
それでも。
彼の言う十年を後悔してほしくない、意味があってほしいと願うことも、それを証明するために行動することも、「理解って」しまう。
それはある意味で、春斗が春斗の為にする自分の行動、だと思うのだ。



ところで、愛情は受け取りたい派ですか?受け取られたい派ですか?
愛されるよりも愛したいまじで、なんて曲もあったけど、私は数年前より延々と「愛情を受け取られることの幸福」についてろくろを回し続けている。
例えばHiGH&LOWのスモーキーについて語るときは「愛情を注ぐ先を持つ神様の幸福」の話をしたくなってしまうし、まあもちろんここではそれは割愛するけども(神様、と呼ぶことが正しいかのろくろを一旦止めつつ)つまり、愛情を注ぐこと、は、しあわせだと思う。


そして、春斗はもちろんお笑いもマクベスも大好きだったと思うけど、その上さらに、その場に愛情を注いで注いで、そうして時を重ねることがとんでもない彼にとっての幸福だとも、思えるのだ。
そうだとして、今の解散に向かって歩き出した春斗が潤平や瞬太のために行動する姿は最後に愛情を注ぐためのそれに思えてしまう。
もちろん、実際、彼らの付き合いはマクベスが終わっても続くだろう。一緒に暮らさなくても互いの存在はそれぞれの生活の中からなくならない。

でも、変わってしまうじゃないか、と子どもじみた不安が、私の中にある。

そしてその変化を「愛情を注ぐ」ことの変化だと感じてしまうのだ。マクベスという場を失って「友人」に戻った時、そこにはもう、愛情を注ぐ理由、は失われてしまうんじゃないか。


だとして。


春斗は、愛情を注ぐ先をこの先見つけることができるんだろうか。それは自分だったら物語として、あるいは人生として美しいのかもしれないけど、実はそれって、とても残酷なんじゃないか。


現在、コントが始まるはちょうど6話が終わったところだ。全何話の物語かは分からないけど、大体折り返し地点だというのは間違いないだろう。
終わりが決まってから物語はまだ半分ある。そう思うと、ここから私は何を見届けることになるのか、考えるだけでしくしくと胃が痛みだしそうな気持ちになる。
それでも。



青春の終わりは、どこにあるんだろう。
本当は、実は、どこにもないんじゃないか。
まもなく解散が決まったマクベスのコントの題材は日常の中にある。結末は、日常へと繋がる。
だとしたら、終わりなんて、ないんじゃないか。
それは彼らの笑う姿に何も終わるものなんてない、と思いたい私の願望でしか、ないんだけど。