えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

エゴイスト

生まれて、生きてるだけで詰みじゃない?
この間ある人にカフェに呼ばれ、相談に乗ってる時に言われた。かなり怒ってるようだったし、傷付いてるみたいだった。私は曖昧に返事をする。
生きてるだけで大変だ、と思うんだけど、それを安易に肯定するのもまずそうで結果的に曖昧に頷くしかできなかった。



出会わなければ、想わなければ幸せだったのか。傷付けただけじゃなかったか。傷付けずに、いられる未来はなかったのか。




私は、ずっと「お金」のやりとりが不安だった。
母親のこと、仕事のこと、意味深に口にされた「深夜のバイト」。そういうの一つに穿った見方をして潜む悪意を想像し、
浩輔の"愛情表現"に不安になっていた。
この好意は利用されているんじゃないか、利用されていないとしたらむしろ龍太を傷付けてはいないか。そんなことを想像してはぐるぐると胸の内に不安が渦巻いて、柔らかなシーンやそこにある表情、温度を愛おしく思えば思うほど、苦しかった。
いつか、この人の好意が踏み躙られないといいと祈りながら見ていた。





最後まで観終わった今となっては、いやそこに悪意なんてものがなくただただ真っ直ぐに惹かれ合っていたのだ・慈しんでいたのだと知った瞬間に猛烈に恥ずかしく居た堪れない気持ちになった。
純粋に惹かれ合っていたふたりを、自分の尺度で「裏がある」と思っていたのは自分だった。彼らの感情を乱暴に妄想し、関係を決めつけて私は映画前半を見てしまったのだ。





同時に思う。愛情ってなんなのか。愛とエゴの違いはなんだ。
見当違いなハラハラと共に映画を見ていた私は、図らずも、この映画の軸となる問いを自分にかけることになった。




愛情ってなんだ、好きだと認められるのはどんな表現のそれなのか、そういう愛情以外は「愛情」じゃないのか。
そしてそもそも、その好きは相手のためになるのか。ならないと、好きでは愛情ではないのか。





映画後半、立て続けに起こる苦しく、かつ、ある意味では多くの人が避けられない悲しみのなか、自分に問い掛ける浩輔のことを思う。



後半、すげえ好きだったんだ。




生活が続く。終わり、淀む生活もふくめて、進む。容赦なく。その中でなんとか笑おうとして、それすら、また折れかける何かが、すぐに来るんだとしても。
悲しくて苦しかった。だというのに愛おしくて、困るな。





映画全編を通して、言葉にならない空気が流れていた。音が音楽が、ひかりが、全部、必要だった。
言葉じゃ追いつかないものがあるんだなあと思う。




作中出てきた「地獄」というある人物の言葉をずっと考えている。考えながら、この間カフェで「詰みじゃない?」と問い掛けてきた人のことを思い出した。





自分のためにだけしか、誰かを好きでいれない。
自分が嬉しいんだ、結局。
例えばそれが相手の迷惑だったらと考えて途方もなく怖くなるのは、ただただ、自分が好きなその人から嫌われるそのことが、怖いからなんだ。




ただ、それでも、好きを大切にしたい。肯定したい。好きな人を、大切にして、好きでいたい。これは好きなのだと呼びたい。
エゴイスト、と出てきたあの映像に、想う。




そのために、表現だとか正しい正しくないだとかなりふり構わず、なんとか、大切にしようとする、愛情を伝えようとする。
愛してしまわなければ好きにならなければこんなみっともないことにならなかった。ひどい、と思う。だけど、酷いし自分にうんざりするし、「ごめん」と思うけど、きっと、そうじゃない人生なんてもっと耐えれるものじゃなかったと思うのだ。