えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

滑走路

悲しいニュースが入った日、私はすごくいい日だった。
久しぶりに友人に会って、素敵なものを観て美味しいものを食べて美味しいねって言い合ってまた次の約束をした。本当に、良い日だった。
幸せな気持ちで開いた携帯に、悲しいニュースが表示されて、私はあの時、何を思っただろう。


歌集が映画になると聞き、どんなストーリーになるんだろうとまずは興味が湧いた。少し調べて、今の自分にこれを映画館で観ることができるだろうかと考えた。
失礼ながら、最初に入ってきたのは自死を選んだ歌人の歌集をもとにした、という部分で、それを観た時、今自分がどっちに引っ張られるか分からないな、と思った。文にすると、なんか、普通に最低だな。


だけど正直に、もしかしたら気持ちの沈みがどうしようもなくなる可能性を私は捨てきれなかった。


それでも妙に公開日直前、タイトルが目に留まる頻度が増えて、その「滑走路」という作品について考える時間が増えた。
なら、と思い立ち、フォロワーさんの言葉もあって映画館に人混みを避けて朝一、滑り込んだ。


学校で虐められる少年、非正規雇用者の自死について調べる自身もじわじわと追い詰められている厚労省の若手官僚、少しずつボタンを掛け違えていく切り絵作家。


いじめや非正規、自死と言葉は重くのしかかる。もちろん、ストーリーもそれに伴って、苦しく息を吐きつつ見たシーンも多くある。だけど、それ以上にじわりと何か、広がっていたものはあたたかった気がした。
それはもとになった萩原慎一郎さんの短歌をいくつか読みながらも思う。
きっとそこにある目線は優しくて、愛おしいものを見据えようとする強さがあった。


一つ一つが愛おしくて苦しくて、だからこそ繋がっていく物語に繋がってくれるな、と思った。あり得ないのに、違う結末やどんでん返しを心から途中、祈っていた。
何より、その繋がりの描き方ひとつひとつが、丁寧で、さり気なさと優しさがやっぱりあって、だからなおのこと、苦しいんだよな。


どうして、って思うことがあるじゃないですか。
どうしていなくなっちゃうの、って。
特に今年は、どうしたってそういう年だからどうして、なんでって。
作中のじゃあどうして、にそんなことを思い出して、でも私はあんまり「どうして」って思わないんですよ。だよなあ、って口の中の苦いのをなんとか飲み下すようなそんな気持ちを今年、何回も味わってきた。
楽しいことがあって、やりたいことや好きなことがあって、好きな人がいて、それでもふと、どうしようもないものがこっちを見ていたり、逆に見ちゃったりするじゃないですか。なんか、ああいう、あーもう良いじゃん、みたいなののことを私はよく考えてしまう。



逆に、どうして生きていたいって思えるんだろうなんて思ってしまうのは、少しひどいな。


許さないってことよりも、いなくなる時は「許してほしい」って思うんじゃないかってことを、今年はよく思い出す。

名前の演出が、すごくすごくすごく好きだったんだけど、その名前をなぞりながら思う。
彼は愛されていたし、なんなら愛されてるじゃないですか。そんで、愛してもいたんだと思う。なんなら、それも今も。
ただそれでもどうしようもなくて、なくなってしまって、許してくださいって思うことは、あるんじゃないかな。いなくなることをどうか、許してほしいって、私は時々、すごく真剣に考えるよ。



それでも生きていく中で笑ったり、愛おしく思ったり手を繋いだり、抱き締めたり瞬間があることを、あの美しい映像を思い出しながら考えてる。
それでも生きていかなきゃいけない、なんて言葉だとあまりに悲壮感が漂うけど。
そうじゃなくて。
何のために生きてるんだろうとか、生きてることが地獄じゃんとか、悪態吐きたくもなるけど、そうだけじゃない、それだけじゃない。そう思うのは、祈りでも願いでもなく、本当のことだ。


「僕は歌う。誰からも否定できない生き様を提示するために」

柔らかで優しくて強い眼差しと確かに目があった気がする。


あなたが今日、生きていることを、私は幸せとは呼べない。くる明日が、少しでも優しければ良いと思う。そして、幸せとは呼べないけれど、嬉しいとは思う、本当に、心の底から。