えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

劇場版 きのう何食べた?

きのう何食べた?のドラマが好きだった。元々、美味しいご飯が出てくる作品が大好きで、そんな私にとって、この作品はドンズバで好きなものが詰まったお話である。

ドラマも、感想を書いていた。


その中で書いた

次の日になれば忘れてしまいそうなやりとりを彼らは心底楽しそうにするのだ。
だけどなるほど確かに、そんな「忘れてしまいそうな会話」で私たちの毎日はできている。

という、彼らの大好きだったところを映画館で見ることができて、そしてそこにいる彼らがドラマからの時間を私たちと同じように「生きてきた」んだという実感があって、私はいま、じゃぶじゃぶと洗濯をしたかのように幸せな気持ちになっている。


ドラマの感想で、私はシロさんのことを「しょーのない人」と書いていた。
今の私はドラマを復習がてら見返しながらシロさんのことを「言葉にしないしさせないひと」だと感じていた。

言わないし、言わせない人だと思う。

もちろん、それでも情の深いケンジは、たびたびそんなシロさんを捕まえて伝えていたし、直接的な言葉はなくとも丁寧にご飯を作り食べするなかで気持ちを伝え、慈しんでいる。それが彼らふたりの愛おしく大好きなところだ。


しかし、映画が始まり早々に私は「シロさん、変わったな」とむずむずと嬉しくなった。
伝えようとする、言葉にしようとするし、相手の……ケンジの言葉を受け取ろうとする。
言葉に全てする必要はもちろんないんだけど、それでも、言葉にして受け取ってもらえたり手渡されることはすごくすごく、幸せなことだ。
だから、私はシロさんにそんな変化を見つけた瞬間、泣きそうになってうぐ、と心の中でうめいた。

それは、例えばずっと行かないと言っていた京都旅行がそうだ。ドラマ最終回でも口にしていた「もういいかと思って」の延長、歳を重ね、同じ時間を過ごしながら、少しずつ、許し合えること、できるようになること。それは、なんて愛おしいんだろう。



また、ドラマでは言葉にせず逃げたりしたことを一つ一つ拾っていったような気もした。
私はドラマ版の言わないこと、の誠実さもものすごく好きだった。
感情的になり言葉をぶつけることは、カタルシスすら生まれるけど、どこか嘘くさくなることも事実だ。
シロさんとケンジは、言葉にしたりしなかったりしながら、等身大の体温、距離感で一緒にいて、私はそんな描写が大好きだった。誠実だ、とも思っていた。


だけど、劇中語られたとおり、「一番近くにいるひとに本音を言わなきゃ誰に言うんですか」なんだ。
全て常に誰にでもそうする必要はないけど、きっと、伝えないままなら後悔することがある。


だって、歳を重ねなことで相手に伝えること・相手の言葉を受け止めること。
つまりは、それは大切にする、ということではないか。


そしてそれは、食事を作り食べ、美味しいねと言い合うこの作品の中にある生活を大切にすることにも通じている。
派手さもない、大きな感動ではないかもしれない。夢のような話でもない。だけど、すごく愛おしくて、大切で、結構、大切にするのが難しい。得難いものだったりするのだ。


そんなことを思うと、私は嬉しくて無性に泣けてしまった。



また、彼らは二人きりで生きているわけではない。
お父さんお母さんや、ジルベールたちお馴染みの人物たちをはじめ、関わり一緒にご飯を食べたり笑ったりすれ違ったりする。
そこには、ゲイやホームレスなど、問題が幾重にも重なってて、積極的に誰かを傷付けようとしていなくても、傷付いてしまうことがある。うんざりすることも多い。
でも、この映画を観ながら、それを殊更に騒がず、しかし無視するわけではもちろんなく、ひとつひとつ、取りこぼさないようにお互いさまで、出来うる限り大切にできないかな、と思った。願った、と言っても良いかもしれないし、この映画を観ながらそう信じたくなった。あまりにも、画面上、映される世界が愛おしくて。


大切なたったひとり、を大切に愛しむ方法はきっと、誰かだけを大切にするんじゃなくて、きっと、誰かの幸せを喜ぶことだと思うんだ。


ところで、今回の脚本では「言った人が同じことを言われる」という構成が何度か出てくる。この構成がとても心憎く愛おしい演出になったりする。
それが愛おしく思うのは、なんでだろうと観終わって考えていた。


きっとそれは、その構成がずっと正しくなくて良いし、強くなくていいし、生きてる限り続くのだ、と言っているような気がしたからかもしれない。

歳を重ねるって、正解を叩き出そうとすることではなく、ただただ、何かを積み上げていくものなんじゃないか。
そうしながら、手元に残ったものは、とんでもなく、愛おしいものなような気がするのだ。そんなことをラストシーンを観ながら、考え、私は嬉しくなった。