えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

コントが始まる

内臓を焼くように、なんていつか言ったけど同時にどうしようもなく毎週楽しくて楽しくて仕方なかったドラマが、終わってしまった。
最終回、後半はもう何が悲しくて泣いてるのか、いやそもそも悲しいのかすら分からず、嗚咽を噛み殺すことなく泣きながら画面を見つめていた。
やったことがある人はわかってもらえると思うんだけど、号泣しながらドラマ見るってわりと大変なのだ。なんせ泣けば泣くほど画面はぼやける。でもそれだけ心を傾けるドラマは一瞬も逃したくない。だからもう、ぼとぼと涙を落としながら目を見開いていた。



最終回、結局リアルタイム・配信含めて3回観たんですが
書きたいことがたくさんある。間延びしていたなんてことはもちろんないんだけど、最終回だけで書きたいことがありすぎて。
そう考えてると、他の話もそうだったな,と思う。だいたいどの話も2回以上観ているんだけど、
じゃあどのシーンが、とか話し出すのが難しい。
要素が濃縮されていたのもあるけれども、何より、思い入れがあちこちにありすぎて。あるんだけど、でもさらりとしている気もする。


本当に、不思議なドラマだ。
物凄い熱量で観ていた。それは間違いなく事実だけど、同時に、さらさらと当たり前にそこにあるような温度感で近くにあったような気もする。


書き始めると、好きなところはいくらでもある。
だから、以前、6話の感想を書いた時は要素を絞って書いた(あれでも)


言葉にせずにはいられないからというのもあるけど、一旦全部、書きたい。
最終回についてはどれだけ長くなっても。言葉にしない美しさももちろんあるんだけど、私は、この話について話せるだけ、話すというよりも、文字という方法で思ったこと全部、残せるだけ残したいと思う。




まず、推しとファン、の話から。
マクベスの物語にこんなに心が動かされた理由は、里穂子の存在なくては語れないと思う。
面白いか、と言われると分からないし、
彼らの芸人としての魅力、あるいは推しとしての魅力というのはドラマを全話観た今もうまく掴めていない。
それでも、日常のなか、里穂子がマクベスに心を傾ける様子に、私たちは彼らを大好きになったような気がする。


里穂子が、オタクとしていかに素敵で、見ているだけで幸せになる存在だったか。



好きになった理由とか、良さとか里穂子にきっと聞いたら色々、返ってくるのかもしれない。
だけど、そんな言葉も必要ないくらい、彼女が彼らを好きだという気持ちは伝わってきた。
その姿が、私は本当に好きだった。
その姿を有村架純さんがあんな風に魅力的に演じてくれることがとてもとても嬉しかった。


「オタク」が創作上で描かれる時に身構えるという話は度々このブログでしてきた。
なんか、過度に描かれてもいやいやいや…となってしまうし、
かと言って、たとえば"救われる"話はまたそれで、なんというか、怖いんですよ。その表現があってるか分からないけど。
なんというか、変な肩入れをする自分に身構える。し、肩入れしなくても「そんなのねーよ」と苦笑することで、いやもしかして「それ」を求めてたのか?となんか、物語に関係ないところで自分にがっかりしてしまったりもする。
だけど、里穂子の姿は少し違った。

「頑張りかたを間違えたのか、そもそも頑張ったのが間違いだったのか」


そう言う里穂子にとって「売れなくても続けるマクベス」の姿はどんな風に見えていたんだろう。
頑張ることは報われるためじゃない、と思うのか、と考えてそんなわけがないわな、と思う。
楽しければ、あるいは誰かに素敵だと思われれば努力が報われなくても良いとは思わないし、彼らだってそんなこと言うわけがないだろう。
それでも自己投影的に救われたということではなくて、
自分の好きな人が「頑張っている」ことは頑張ることへの躊躇いだとかその躊躇いに対する居心地の悪さを柔らかく溶かしていったんじゃないか。


そして最終回「あなた方が精魂込めて作り上げたコントは、この世からなくなることはありません」という台詞が本当に大好きだった。
あの台詞を聴いて、改めて里穂子は、マクベスという人々が好きなのはもちろん、その前提に彼らの作る作品が好きなんだ、と思ったからだ。
好きな作品を作る人のことを好きでいれることは嬉しいし、好きな人が作る作品を好きでいれることは本当に奇跡のように嬉しい。



"群像劇"だなあと思うのは、そういうワンカットワンカット、あるいは人それぞれに愛おしいと思う瞬間が本当に多かった。
里穂子がなんでマクベスが好きなのか、は語られすぎない。
こんなに面白いコントを作るからか!とストレートに思ったりは申し訳ないけどしないし、
でもかと言って、人柄だけで彼らが好きだということはないだろうな、とは思うし。
でもその掘り下げすぎない、かと言ってぼんやりと誤魔化したりもしないその距離感で切り取られる風景が本当に私は好きだった。



全部書くとか言ったけど、これ、たぶん書いても書いても書ききれないな。


芸人として成功するってなんだろう。何百人、何万人もの人に支持されることか。
それとも、マクベスのように誰かに心の底から愛されることか。
それは"人としての成功"というバカみたいに壮大な問いに似てる。




最終話、もう一つ印象に残った会話があった。公園で、春斗と里穂子はいつかの約束をする。

「その頃は何してるんだろうなあ」
「楽しみですね」


そうか、そうだ、「楽しみ」でいいんだ。

いいオチってなんだろう。どうやってつけられるんだろう。
かと言って、死ぬまでオチがつかないなんてこともないのかもしれない。だって、里穂子の「花」のようにある日突然、伏線が回収され、オチがつくことがある。
無駄に思える一日が思いがけないオチに繋がるかもしれない。誰かが見つけてくれるかもしれない。
そう思うとほんの少し楽しい。



マクベスが終わりに向かう話かと思っていた。だけど、そうではない。
むしろ今から、始まったのだ。


そういえば、第6話の感想で春斗は愛情を注ぐ先を見つけられるのか、見つけられるとしたらそれはどこなのか、なんて書いてたけど、結局その結論は出なかった。でも、それはいつか不意打ちでああ、そうだったかもって思うことがあるかもしれない。それはそれで、楽しみだな。