えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

生きるとか死ぬとか父親とか

ひやっとした。
観るのを決めたのはCreepy Nutsの松永さんが出演されると聞いたからだ。しかも、ラジオの話。ここ一年、すっかりラジオを聴くことが生活の一部になった私は、そのドラマをとても楽しみにしていた。
しかし、見出して、ひやっとした。分厚いし、苛烈だ。重たいわけじゃない。見やすいドラマでもある。だけど時々、とんでもないボディブローをキメてくる。



じゃあ何がそんなに私に刺さったかを語り出す前にまずドラマとしてたまらなかったところを話していきたい。
まず、原作のジェーン・スーさんをモデルとした主人公、トキコを演じられた松岡茉優さんと吉田羊さん。もう、この布陣があまりにも堪らなかった。
もともと、コウノドリを観ていて吉田羊さんが演じる小松さんと松岡茉優さんが演じる下屋のやりとりが大好きだった私にとって大歓喜のキャスティングだ。
そして、驚くほどお芝居の波長が気持ちいいくらい合うのだ。同一人物なので時折、ハッとするほど「同じ」に感じる瞬間もある。
年を経ての共演が本当に大好きな上にこんなご褒美みたいな共演を見れてすごくすごく嬉しかった。


そしてずっと淡々と続くドラマで、そこを彩るピアノをたくさん使った劇伴が本当に魅力的だった。なんだろう、あの寄り添ってくれる感じというか、しみしみさせてくれる本当に密なドラマだ。
派手なドラマではないけれど、深く深く沁み込んでくる。
でも、重苦しいとかではなくて軽快にピアノのリズムと一緒に進んでいくから楽しくて見易くて本当に好きだ。

そしてそれでも私はひやっとしたんだけど(笑)



特に、水をぶっかけられたような気持ちになった台詞を、私は携帯にメモしていた。

「私は自らeditした物語に酔っていた。それは父を美化したかったからではなく、私自身が私の人生を肯定したかったからかもしれない」

「美談とは、成り上がるものではない。安く成り下がったものが、美談なのだ」

こんな苛烈で、的確な言葉があるだろうか。なんなら、こうしてネットの片隅でブログを書いてるだけの私にも深く突き刺さった言葉だった。安く成り下がった美談。それは、なんとなく思い当たる節がある。
そして今打ちながら思ったんだけど、私がこのドラマが好きなの、このトキコがまたそうして"家族"と"文を書くこと"からブレずに目を背けるから好きなのかもしれない。
そしてそれでも重苦しくないのが本当に好きだ。重苦しいのがダメなわけじゃ、もちろんないんだけど。


トキコさんってすごく素敵なんですよ。


優しさとか面白さとか人間臭さのバランスがものすごくて。そしてその人が真っ直ぐに、でもなんだろう。
重苦しく深刻に、っていうのもすごいことなんだけど、生きていく中でずっと深刻にって難しいし、どうしてもこう、白々しくなってしまう。
そんな風に思うからこそ、そこが軽やかで軽やかなのに決して目を逸らさないのがすごく好きだ。なんでかな、その方が難しいような気がするからだろうか。変な物語性を持たせるんじゃなくてただただそこに在るものとして彼女は考えて生きているので。
そしてその姿を観ていると、つい、自分に立ち返りたくなるのだ。



そういや私も、ロッテリアで父親と喧嘩したことがあった。なんなら、このコロナ禍前も、私は父と喧嘩をしている。
そんなことを後半、父親とそして誰より母親と向き合い出すトキコを観て思い出した。忘れてたわけじゃないけど。
親はいつまでも親だけど、でも老いてはいくし、子どもはいつまでも子どもだけどでも自分の足で立ったり考えたりするようになる。そうなると「これはおかしいんじゃないの」って言ってしまったり、結果、すれ違ったりする。
変な話、親に何か「おかしい」って言うとして、そうなるとなんかそれが冗談レベルならともかく一人の人として言う時、なんとも言えない気持ちになる。
親もただの一人の人間で、同じような人なわけで、間違えないわけじゃない。そうは思いつつも、どうして、とより思ったりしてしまうし、
親であることに過剰に何かをのせてしまう。
更に言えば、親からしても子どもに嗜められたりすることはきっと良い気持ちにはならないと思うのだ。
ただ、なんとなくその黒々した居た堪れなさとかなんとか出来ないかという気持ち(そんなに拗らせきってるわけじゃないけど)そしてこうして会えなくなると、
もし会えないままどちらかが死んでしまったら後悔は残らないだろうかと心臓がちくちくする日がある。
本当に、一切拗らせてない。仲良くLINEもオンライン通話もしているんだけど。




ところで、このドラマをきっかけに私はこのドラマの原作者であるジェーン・スーさんを知り、彼女のPodcastを聴くようになった。


OVER THE SUNというタイトルのそのPodcastが本当にめちゃくちゃ楽しい。
ラジオこそ聴くようになったけど、Podcastといういつでも聴けることによる逆のハードルに今まで、聴く習慣がなかなか生まれなかった。
しかし、ジェーン・スーさんと堀井美香さんの楽しい会話は聴いてるとなんだか、気持ちいい。
元気が出るとか為になるとか、もちろんそういうところもあるんだけど、それ以上に気持ちいいのだ。
スーさんのバッサリとした口調は聴いていて心地良いし、美香さんの相槌は心がほっとする。これ、ドラマでもアナウンサー東さんの相槌があるからこそだよね、というシーンがあったけど、本当にそうだな、と思う。
ふたりの会話だからこそ、心地良いのだ。



まだ全てのエピソードを聴いてるわけではないんだけど、
聴いてる中でもお気に入りのエピソードがある。離婚したシングルマザーのお母さんのメールから、親が離婚したひと、あるいは本人が離婚したひとそれぞれからのメールを募り、話すというものだった。


色んなひとがいて、色んな思いがあり、それをふたりが「そこに在るもの」として受け止めて、話す。
解決策を見つけるわけじゃなくて、あくまで掲示板だから、と番組冒頭スーさんが言ったとおりに、番組は進む。



そんなスーさんの言葉で印象的だったものがある。
どんな物語も切り取り方によって間抜けな話にもシリアスにもなるというものだった。それはなんというか、そうだよなあ、と思うのだ。
このPodcastにしろ、「生きるとか死ぬとか父親とか」にしろなんでもなく聴く人がいて、一方でもしかしたら苦しくて聴けない人も、いるのかもしれない。
それはそこに、その人それぞれの生活があるからだ。



街の風景が印象的なドラマだった。人々の暮らし。それはどこか、ラジオに似てる。これを聴く誰かのことを私はよく考える。



名前を知らない、メールを送っても読んでもらえるかわからない。
だけど、ラジオを聴いてるとき、ハッキリとパーソナリティのひとがこちらを見ているような錯覚に陥ることがある。そして、夢みがちなことを言うなら、それは、錯覚なんてものではないと思うのだ。


いつだって、生活は寂しい。物語のように美しく、段取りよく、起承転結をつけることはできないのだということに私は時々、途方に暮れる。
しかし私は、ラジオを聴いてるとき、そのことをほんの少し考えずに済むような気がする。



色んな人がいて、生きて笑ったり怒ったりしている。その人たち全員に出会ったとして、全員と友達になれたりはしないだろう。嫌いになったり、嫌われたりする人もいるに違いない。
それでもその中でぼんやりと同じ周波数を漂うラジオの時間が、私はたまらなく好きだ。
生きるとか死ぬとか父親とかは、テレビドラマでありながらそんなラジオの時間を克明に描いていた。