えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

加々美と人生の主役の話

加々美のことを、考えている。
加々美とは、昨年放送されたMIU404の第2話の登場人物だ。
その前に放送されていたスカーレットで目を引いた松下洸平さんが演じたということもあり、思い入れも大きい。
だけど、役者さんがという以上にあの「加々美」という人物が私にとっては忘れられない、わりと頭の片隅の容量を大きく占めるのは彼の持つ「物語」のせいなのかもしれない。



友人と、去年MIU404の話をした時、2話を観るのは体力を使うという話になった。
大好きだし良い回ではあったけど、それはそれとして体力を使う。加々美を観るのがつらい。
頷きあいながらそんな話をした。



「なんで自分(の人生)はこうなんだろうか」



新人、若手という可能性の言葉から遠ざかれば遠ざかるほど、頭を過り出す。こんなはずじゃなかった。普通に生きれたら良かった。高望みをしたわけでもズルをしたつもりもない。
なのに自分はどうして"こう"なんだろう。
どこでいったい、"間違えた"んだろう。


松下洸平さんの芝居が真に迫るのもあって、私はMIU404の2話を観るたびに、その思考の渦に飲まれそうになる。
そして作中、加々美はその渦に飲まれたまま、押してはいけない「スイッチ」を押してしまう。
そうして、その原因を自分以外、それも自分ではどうしようもなかった「親」に求め出す。
間違えたスイッチを私はまだ押してはないけれど、その苦しさや苦さはまざまざと自分の中に残った。
だからこそ、私の中で2話は観るのに体力のいる、しかしとても思い入れのある回になったのだ。


そしてこのあいだ、また別の初見の友人とMIU404を観る機会があった。ドキドキしながら、感想を聴きつつドラマを観るという贅沢な経験は様々な楽しさがあった。
その中でも、2話は想像だにしなかった経験になった。

爽快に加々美に怒る友人の反応を見ながら、目から鱗が落ちるような気持ちになる。
そ、そうか、怒るというリアクションもあるんだな…!


それは、私だけでは起こり得ないリアクションで物凄く面白かった。
そして、そんな反応や考えを聞きながら考えた。



加々美は、自分の人生を生きていたんだろうか。



人のせいにするな、ということを考えていた。どうして、自分の人生はこうなのか。どこで間違えたのか。そう問い続ける中で「自分は悪くない」という理由を探してしまう。
だけど、そこで他人を理由に挙げれば挙げるほどもしかしたら自分の人生の主人公の座を譲っていってしまったのかもしれない。


自分の人生のけつを持てるか。
責任を取れるか。それはつまりは自分の人生を生きているか、ということだ。


自分の人生が悪くなっていく、あるいは自分の人生は良い人生ではないと思うこと。
それはきっと自分が主役から外れれば外れるほど大きくなっていく。誰かに対して押し付けた責任が結果的に、自分をその主役の座から引き摺り下ろしてしまったのかもしれない。




いつなら満足できるのか、ということをよく考える。
例えば私は所謂"推し"に対し、「負けねえ」と口にする。それはともすれば、そもそもお前は同じ土俵にも登ってないくせに何を言ってるのかという荒唐無稽な話かもしれない。事実、時々嗜められもする。
だけど、それでも毎度、好きな人に出会うたびに負けるかコナクソ、と思う。極端な話、自分が何をしようとしてるかに関わらず、更に言えば、同じフィールドに立ちたいと思ってない分野の人に対しても、だ。
勝ちたい、というよりも負けたくないんだと思う。推しの方がすごいと一方的に押し上げてしまうことは、私の価値観をもって話すと違和感という言葉になるのだ。


同じ人間じゃんか、と思う。


分かってる。とんでもなく素晴らしい才能や人間性、努力に知識、経験を持っているひとを、「同じ人間」と括るのはいささか乱暴だろう。冷静な私は確かにそう、ツッコミを入れている。それでもなお、いやいや同じ人間じゃんか、と思うのだ。
それはたぶん、私にとって人生がイコールで物語であり、かつ生きてるそれぞれが主人公に思えているからだ。
もしも、より面白い、誰かを楽しませることを良い人生と呼ぶのだとしたら。そんなことを妄想して日々過ごしてる私にとって、どんな人だってそれぞれ生きてるだけで同じフィールドにいる。


しかし、そういう言動を続けていれば心配もされる。ただの社会人で、特に面白くもない特殊でもない仕事をして、何かを表現しているわけでもない。せいぜい、こうしてネットの片隅で益にもならない文を書いているだけだ。そんな中で自分を火にくべて「物語」を作ろうとするなんて誰も求めてないし、意味もない。ただただ、しんどいだけだ。
そんなしんどい、というか無謀なことしなければ良いと思う。言われる。でも違う、私はそうしたい。
そんなことしなくても人生は素晴らしいという言葉は、とても素敵だ。でも私の中でまだ実感として落ちてきてない言葉だから、他人の言葉を借りて尤もらしく納得するわけにはいかないのだ。
何者かになりたい、という言葉からも少し擦れたきっとその「何者かになりたい」と「そんなことしなくても人生は素晴らしい」という言葉の間の言葉や意味を探してる。
それが、私が描いている物語の主人公らしい歩み方なのだ。
誰かに借りた尤もらしい言葉ではなく、最終的にありきたりな言葉になったとしても「自分の手で見つけた」と思える言葉を探し続けなきゃいけないし、そうしたい。


にしたって、そうやって主役の座にしがみつこうとしても譲っても蹴落とされてもしんどいのはさすがに人生のバグな気がするんだけど、そこんとこどうですか。
まあでも、そんなバグがあるならあるで、ある前提、やりたいようにやるしかないか。



加々美は最後、「加々美」を見てまっすぐに届けられる言葉を受け取る。加々美の人生を加々美のものとして扱い続ける伊吹や、志摩から……そして誰より、あの夫婦から。
いや、夫婦にしろ加々美にしろもしかしたら最初は"代わり"だったのかもしれない。それでも、あの時後悔を口にした相手は、怒りを口にした相手は、失った息子でも怒りをぶつけることができずに勝手にこの世からいなくなった父でもなく、共に車の中で会話をした相手なのだ。
そうだとしたら、その時、彼は久しぶりに……もしかしたら、初めて彼自身の物語の主人公の座に座れたんじゃないか。そんなことを私は得意の感傷で願わずにはいられない。