えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

生きちゃってんだからしゃあないじゃん

家族、という投稿を見て、たまらなく嬉しかった。
喜劇が出た時、自分がこの曲に共感できるだろうか、と怯んで、それから繰り返し聴く中で「あなた」に入るのは狭い定義である必要がないんだ、と腹落ちし、
まさしくそんな話を源さんがしてくれるたびに安心したりした。


家族、という言葉の意味を広くとっていいはずだ、と思いながらも自分が無意識に狭めていた「婚姻関係のある人々、あるいはそこから派生した集団」と限定していたんだ、と自覚した。でもそうじゃない。家族は同じ人間相手である必要もないし、他人である必要もない。


そう思いながら過ごしていたけど、インスタの投稿を見ながら改めてそうだよな、と思った。
いつだか、源さんが仕事仲間だって家族だよ、と言っていて私はそれが本当に好きだったんだけど、大好きなひとたちが集まる写真に添えられた家族、という言葉が嬉しかった。彼らが笑いながら音楽をする姿が好きで、まるで家族みたいだとずっと思っていて、それを、彼らが口にしているのが本当になんだか嬉しかった。


家族をもった、作った源さんだからこそ描けた曲。そうかもしれない、そうだと思う。
だけどその家族は一つじゃなくて、たくさんあって、それが重なって交わって、全部で彼を構成してるんだな、と思った。改めて。




学生時代の後輩の結婚式に行ってきた。その日からもう、なんか、感情が忙しい。





なんか、すごい日だったんだよな。
覚えていたくてそのことを話し出そうとすると何をどこまで書くかとかに迷ったりして、そうやって考え続けると「なんかすごい日だったんだよな」で落ち着く。
そこそこ盛りだくさんな毎日の中で、摩耗して消耗して「別にいいや」で済ましたり、もう全部どうでもいいやと投げ出す準備だけ整えたりいやいやと首を振ったり。
そうやって過ごしていくなかで、時々、人生はご褒美みたいな1日を寄越してくる。



誰かの幸せを見届けられること。それが、非日常ではなくて日常と地続きなこと。それから、あの日々の続きにあるんだということ。そんなことをずっとずっと、考えている。




これは本当にたまたまだけど、星野源の曲がたくさん使われた式だったので、繰り返し思ってる。あの時このひとの命が終わらなくてよかった。音楽を続けてくれてよかった。
本当にファンの勝手な感情で恥ずかしい限りだ…それでも、心底思ってしまった。
この人が生きて、そうして奏でた曲が、誰かの笑顔に繋がっている。



その上、自分にとってあの一年を続ける理由になったひとの音楽が、大切で幸せになってほしいと願うひとたちの大切な曲になってることになんか、ひたすら、ノックアウトされてる。




音楽ってすごい。誰かの生活に人生の大切な瞬間に、こんなにも寄り添うのか。
誰かの頭の中、心の奥、鳴り響いた音が飛び出して広がって、また違う誰かの大切な曲になる。
なんだか私は、そんな瞬間に立ち会っているような気がした。




誰かを許す、と考える時、私はいつも「許してもらえるかな」と考えることの方が多い。許してもらえないだろうな、という反語込みで、許してもらえることってあるんだろうかとずっと、ここ数年考えていた。
それは、自分のあの時ああしていれば、の積み重ねの結果だし、でもきっとあの時と同じ時間に戻れたとしても同じことをしてしまうだろう自分への嫌悪と諦めだ。後悔すると分かってて選んだ選択をずっとちゃんと抱えておくことくらいしかやりようがないと思っていた。
だけど、もういいよ、と言われたような気がした。気がしただけでそうじゃないかもしれないし、また少ししたらいつも通り、罪悪感を抱えたりはするのかもしれないけど。




勝手に分かり合えないって傷付くことが多いから、傷付いた時に相手に怒りがわかないのだと思う。だってこれは私の勝手、なのだ。
でもそれはそれで、相手に対してちょっと失礼だったよな。


諦めていたというか、大事に仕方がわからなかったというか、大事にしていいものだろうか、と思ってるものがたくさんある。
でもあの日、大事だったよな、と思った。だった、だし、大事なんだよな、今も。




生きてて、がっかりすることは多い。


生きてて、人が生きて、変わっていく、苦しいこともたくさんあるし最低なことも多いんだけど、人が生きて、そこにいて、それはすごく、優しいことだった。


どっかで勝手に生きててくれ、と思うけど、やっぱり会えたら嬉しいな。会えて、笑っている姿を見れるのは、本当に嬉しい。嬉しいと思う機会を、誰かからもらえるのだ、ということに今も泣き出しそうなくらい嬉しい。



私にとって大切なものは私が大事にしていればいいと思っていた。今も思っている。でも、そうじゃなくて、大切が自分のものだけではなくて、誰かにとってもそうなんだということ、しかもそれが、今に繋がってるんだということに、何度もあの日から驚いてる。



キリがない寂しいや許せないや苦しいを、なんとか面白がれないだろうか。そのものを茶化したいんじゃない。むしろ、それを茶化されることに毎度毎度、丁寧に傷付いてきたからそうじゃなくて。
人に対して、ああクソって思った倍、ああ生きててよかったって思いたい。目の前のこの人がここまで生きてくれたことを嬉しいって思いたい。
なんだよ、って毒づくたびに素敵だったことの話をしたい。誰かがこの世がどれくらいクソで最低で一分一秒でも早く終わった方が良いことを証明し続けるなら、その何万倍ものクオリティで面白い、楽しい、続いてほしいと願い続ける根拠の話がしたい。



こんなことをわざわざ言葉にする意味は、忘れていくし変わっていくからだ。ああ良かった!と思ったこんな大きな衝撃も、いつか時間を経て、変わってしまう、なくなったと思う日だってくるかもしれない。
だけど、こうして言葉にしておけば、読み返した時、ああそうなんだ、と物語を読むような感覚でも追体験できる。



大切は留まらせておけないけど、たくさん増やしていくことはできる。
花を降らせる、と思うことに似てる。
人間のそういうなんとか試行錯誤しようとする工夫が好きだ。
はー生きてて良かった、なんてライトにどんどん言っていこうや。