えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

喜劇

「悲劇に溺れすぎないことが大事だと思います。」


ある作品でのインタビューで源さんが語っていた言葉が好きだ。
それは何も「悲劇」を無かったことにしようという言葉ではない。むしろ、それをしっかりと見つめた上でなお、何ができるかという言葉に思えた。人生はままならない、とハッキリと口にする源さんは"ままならなさ"をドラマチックには扱わない。ただただそこにあるものとして扱う。そうして、溺れることなく過ごそうという。



「喜劇」はアニメ、「SPY×FAMILY」のエンディングである。
それぞれに秘密を抱え"普通"の顔をしながら家族になる三人の日常を描く物語に合うように歌は生活を歌う。手を繋いで、今日こんなことがあったと話す、そんな幸せを歌う。




それだけ抜きとるとあたたかなほのぼのとした音楽になりそうなのに、そこは星野源である。




そもそも「喜劇」というタイトルが発表された時からざわざわした。明るいタイトルな分、不穏さがある。




……いや、不穏さはない。
この辺が本当に私は表現にしきれなくていつも歯痒くなるのだけど、例えばわざと明るくすることで絶望を際立たせる、みたいな演出をやるというイメージではないのだ。
演出、という言葉をなんとなく私はそこに当て嵌めたくない。
あえてなんとか無理やり言葉にするなら、源さんが「喜劇」というならそれはその裏にある悲劇をしっかり見据えてもくれるんだろうな、という安心と信頼感があるということなんだと思う。




帰り道、その先、帰り着く場所について思いを馳せたくなる音楽だ。柔らかくて楽しげで、でもどこかちょっと寂しい音で構成されてるからだろうか。知ってるような知らないような帰り道のことを私は聴きながら考えた。




「帰りたい」と思うことがある。




でもそうして思う時私はいつも「でもこれ、どこかに帰っても"ああ帰れた"って思えないんだろうな」と思う。



帰りゆく場所は夢の中


そんな歌詞を聴きながら思った。
家族のもとへか、大好きな人の場所へか、懐かしい場所へか。どこなら、と考えるたびにどこでもねえなあ〜〜〜と悪態を吐きそうになる私は、あーー夢の中ね、と納得するような気持ちになった。





「喜劇」は、最初、誰かといる人の曲だと思った。
配信された0時に曲をダウンロードし、何度か聴く中で「家族」の歌だし、SPY×FAMILYの音楽だから、それは誰か、と一緒に過ごすひとの曲だろうというなんとなくその感覚があった。




もうこれ、本当に物凄く恥ずかしい感想だったな、と一晩経って猛烈に反省した。
なんだその自己憐憫盛りだくさんの感想。ちゃんと自分を切り離して曲を聴きなさいよ、と自分にぎゃんぎゃん吠えたくもなった。



ただ、そうして改めて夜、仕事終わりの帰り道にぼんやり流して思ったのだ。





一緒に帰る君、あなた。
そんなひとは、今この瞬間隣にいないかもしれない。いつか出逢う君なのかもしれない。いやなんなら、その君は自分かもしれない。





ふと急にそんなことを思った。
いや、分かってる。
実際これは家族のことを歌ってて、SPY×FAMILYの主題歌で、だから実際に"誰かといる私"の歌なんだと思う。
だけどそう思うのだって、ありなんじゃないか。




争って壊れかかったいかれた星で、私の居場所は作るもので誰かが決めつけた何かに従う必要もなくて。
そう淡々と歌う声になんだかたまらなく嬉しくなった。
そしてそう思いながらぼんやり空を見上げる帰り道はなんだかめちゃくちゃ良かった。ああこんな帰り道はまさしく、「帰る」ために歩いてる道だなと思った。



それこそ、


顔上げて帰ろうか
咲き誇る花々

がシンクロするような気がした。確かにこの音を聴きながら花を見たと思う。
結局自分のことかよ、と言われそうだけど、本当にあの一音を聴いた瞬間、音楽の端っこに触った気がして嬉しかったのだ。




悲劇に溺れる方が早いような、ままならない毎日の中で、そうして諦めてしまうことってわりと自分に近いところに常にあるんだけど
そうして、何かを綺麗だって思えたこととか、「喜劇」を聴きながらなんか良いな、と思えたことがいつかの自分のためになるんじゃないかと思ったのだ。


さあうちに帰ろうか

こんなことがあったって君と話したかったんだ


そう私は自分に呼びかけたい気がした。
その時の自分は帰る場所を見つけてるのか、一緒にベッドで笑い転げる誰かを見つけてるのか
もしくは
今近くにいる誰かにきちんと気付けるようになってるのか。
分からないけど、明確な何かの変化がなくてもそんないつかはこの喜劇のふざけた毎日の先にあるんだろうなと確信に似た気持ちになった。





喜劇、はどうしようもない現実を嗤う皮肉なんかじゃない。
殊更に明るく振る舞うことで影を際立たせようとすることじゃない。
本当に、心の底から喜劇だ、と思う。
君と笑える今日を愛おしく思って、こうして一緒に帰りたかった、ご飯を食べたかった、と思う。




アニメを観たら、ラジオで源さんの想いを聴いたら、MVでまた違う表現に触れたら。
また違う気持ちになるかもしれない。なるんだろう。
でもそれも楽しみなんだ。
そうやって毎回いろんな視点で、理由で、わくわくする。考えが変わる。生きて過ごすそんな日を私は喜劇と呼びたいと今思ってる。





そしていつか、「こんなことがあってね」と話すために、今日もとりあえず。まずはふざけた生活をできるだけ続けようと思う。