えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Case

9月30日、20時から。
Creepy Nutsが生配信のライブをやるらしい。
私はそのニュースを観て嬉しくて興奮して、いやしかし幻覚だったのでは?と疑い、
どうやら本当にあるらしい、とわかって慌ててこのブログを書いている.


ライブは彼らの最新アルバムCaseの曲を全曲やるという。
しかも、セトリはそのアルバムの順番、そのままで。
飛び跳ねたくなった。なんなら、心の中では結構かなり、飛び跳ねている。
私はこの「Case」というアルバムが大好きだ。それは、一曲一曲の完成度の高さはもちろんのこと、何より、その曲順によって紡がれた彼らの物語が大好きだからだ。


世界をひっくり返す、とラジオで悪ふざけをするように、でも真剣に言う彼らに、本当に心から楽しみにしていた。



アルバムは初め、彼らのここ数年の快進撃をそのまま音楽にした曲たちで始まる。
とはいえ、私はど新規もど新規、ある程度知名度が広がった今年から好きになった。それでも、本格的に好きになる前から「なんかやばい音楽をやる人たちがいるらしい」ということは聞こえていた。
(自分の記憶を遡ると、コタキ兄弟と四苦八苦、の主題歌が彼らの『オトナ』に決まった時、おお、最近噂で聴くひとたちだ、気になってるんだよな、と思ったし、主題歌として聴きながらあーなるほど、と思った記憶がある)(まあその約1年後、オトナを聴きながら泣くような日が来るとはさすがに予想はしていなかった)


以前も彼らのことをブログに書いていたけど、


彼らはたびたび、ファン達、リスナーの間で"陰キャのヒーロー"と表現されることがある。



それまでの彼らの性格・人生、そしてHIPHOP、あるいは音楽業界での立ち位置。
そういうものを指して主役にはなれない「助演」だといい、オードリーの若林さんと南海キャンディーズの山里さんのユニットたりないふたりになぞらえ、自分たちのことを"たりない"と卑下する。
それでも卑屈なわけじゃなく、隙あらばかます、好きなことをする。そんな彼らの作風や振る舞いはたしかに、「陰キャのヒーロー」とも言えるかもしれない。


そんな彼らが、どんどんかましていく。お茶の間に出て、活躍のフィールドを広げる。名前が広がっていく。
多忙を極め出した彼らの姿を見て思う。ああそりゃヒーローだよなあ。
たりなかった、使えない奴らと揶揄された、主役の座につけなかった「彼ら」の快進撃。それを観て、同じようにうだつのあがらない日々を送る「陰キャ」の私はスカッとする。



「売れた彼ら」は今、体内時計が狂うほどの時間の中にいて、「only one」で戦ってる。
やすやすと色んなものを飛び越え、ど真ん中でかまし、スポットライトを浴びる。
その多忙過ぎるさまに心配になるとともに、変わらない彼ら、誰の上下にも立たず、そのままマイペースの極みな歩みで進む彼らを本当に格好いいと思う。


そんな感情は風来・のびしろと曲が進むとどこか柔らかな感覚に変わる。
のびしろは、コラボ曲以外ではかなり早く解禁された曲だったと記憶している。30になる節目、オトナという仮想敵にしていた相手に近づく自分への、でも清々しい感情、焦りではなく「まだ伸びしろしかないわ」と歌ってくれる頼もしさがすごく好きだ。
そして、風来なんですよ。
(アルバムの順番としては風来→のびしろの順)


NHKの金曜17時に放送されているニュースのテーマ曲でもあるこの曲を、私は張り詰めすぎて脳みそが限界を訴えているとかけたくなる。


特に刺さったのは歌詞のこの部分だ。

「まだ繋がってたいけど姿はくらましたい」

「指を指し合うゲームに疲れた
見張り合うのに嫌気がさした」

「すぐ変わっていく価値観や立場
がんじがらめのらしさ正しさ」

もう気を抜くと、全ての歌詞を抜き出したくなるんだけど。
この曲を聴くと私の頭の中でCreepy Nutsは「陰キャのヒーロー」じゃなくなる。MC、DJとして、ではなく、同じように30年生きてきたひとりの人になる。
そして思うんだけど、陰キャのヒーロー、と押し付けてしまうのもある意味、物凄く怖くて酷いことなんじゃないか、とも思うのだ。
今だから、ということもあるけれど、「あるべき正しさ」とか「幸せでいることのハードルの高さ」で毎日息苦しい。
そのくせ、幸せではない、ということも許されず、何を選んでも指をさされかねないし、自分だって気を抜くと誰かを叩きのめす機会を狙ってしまってる気がする。



なんというか、そういうの全部、知るかバーーーーカ!と放り出したくなるというか。
この辺の感覚は、彼らのラジオが好きな感覚に近いのかもしれない。ただただ、頭を気持ちのいいところにおきながら過ごす時間。放課後の帰り道、お気に入りの穴場の公園で延々と好きな漫画の話をしていた感覚。スクールカーストだとか面倒なことを放り投げて、ただの自分、で話をできていた時間に戻る。



と、打ちながら思ったんだけど、これ風来の後に、のびしろが来て良かった。
風来聴くと私は疲れを正しく自覚するし、それをまあそりゃそうだよな、って思う。
でも、のびしろを聴くとその疲れまでもまるごと、愛せるような気がする。まあそんでもかましてやるけどな、と無責任に明日の自分のハードルを上げてしまえるような、期待できるようなそんな気がするのだ。


そこから曲はデジタルタトゥー、15才と、今まで「こけおろしてきたもの」やそれに伴ってやってきた自分の「暴力」について思いを寄せる。

このタイミングでデジタルタトゥー、という曲が出ることをどうしても感情的に考えてしまう。
この数ヶ月であった色んなことは、全く関係ないところからの引用でアレだけど、9月21日放送の星野源オールナイトニッポンでの言葉を借りれば「これからはもうしません」と思えることが大切だという教訓になった。
それはもちろんポジティブな変化でもあるんだけど、同時に、自分がそうしてきた……もうしません、と反省すべきことをしたことへ向き合う必要があると思う。


R-指定さんがこのデジタルタトゥーや15才について語る上で、MCバトルでのこと、そもそもラップが自分にとってどんなものだったかを話していた記事を繰り返し読んだ。


(特にお気に入りは8月に発売されたMUSICAだ)



ある意味で、その「間違い」を声高に間違ってた、おかしいと非難だけすることは見ないことと同じなんじゃないか。
このアルバムを作るにあたり、自傷行為にも近い向き合い方になったと話していたラジオでの話も含めて、つい考え込んでしまう。
間違いだと認めることは、たぶん、その存在そのものを否定することとは違うのだ。



それは続くBad OrangezやWho am Iでも思う。このブログではBad Orangezにスポットを当てながら考えたい。



ワルって格好いい。もちろん、人に迷惑をかけるのは大前提間違いないとして、でも結局「不良モノ」がなくならないのはそんな共通認識がある一定あるからだ。

「あの日のお前も怖くて強がっていただけなんて
今更言うのは勘弁いつまでだって憧れさしてくれ…」


ワルにもなれず、そんな人を冷やかしたり眉を顰めたり、でも結局憧れていた人間にとって「実は俺も」なんて言われるのは恐ろしいことだ。
お前は「俺とは違う」んだから今更そんな無責任なこと言わないでくれ、と思う感覚は私も知っている気がする。同じ人なんだ、と思えることが救いにも絶望にもなるし。

でも知ってた。
いつも哀しい目をしてたっけな…

そう続くあたりがBad orangezの優しさというか、柔らかさだと思う。
うまく行き出して、肩肘を張ってることを認めて、それでもまだまだと良い力の入れ方で奮起している彼らが自分のこれまでを認めながら、
自分とは"違う"ひとへ視線を送る。見つめる。


陰キャのヒーローという話にも少し重なるけれど、好きという気持ちや憎いという気持ちはどこまでも自己責任なのだ。
自分の考えも、気持ちも。

今までのアルバムと違い、今回は誰かを敵にしていない、という話があったけど、
結局、それぞれ、自分に向き合ってそれが時に自分を思い切り否定したり逃げたりしたくなったりするようなものであっても、続けていくしかない。



アルバムは、最後、土産話へとつながる。
これまでの彼らを振り返る、DJ松永への手紙のような歌詞は同時にまだまだ彼らの物語がエンドロールを迎えないことへの宣言にも思える。
そしてこのアルバムは紛れもなくCreepy Nutsという最高にイカす彼らの現在地を高らかに宣言するものでありながら、
今この瞬間を生きる全ての人に向けた賛歌なような気もするのだ。




そんな最高に格好いいアルバムを「曲順」に体験できる配信ライブがなんと無料であります。正気か、なぜ無料なのか。
4000字くらいかけて長々と書いてるけど、そんな野暮なことより、きっと直接食らっていただく方が分かりやすいのでよろしければぜひ。
9月30日木曜日、20時からです。