えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

100SEASONS

三代目のライブに通った時間があった。
2019年に開催されたライブツアーRAISE THE FLAG。
初めて生で観れる(その前のUMPの終わりごろにLDHに出会ったのもあり、UMPはギリギリライビュで参戦していた)ライブだったことや、追加公演が続々と発表されたこともあり、
自分でも驚くほど、そのライブを観るためにあちこちに行った。
当時住んでいた大阪の京セラはもちろん、福岡、名古屋。
各地に思い出ができて、京セラも私の中ですっかりなんだか観ると安心する建物になった。



そんな日々が今はもう随分遠い。
去年の今頃に比べれば、それでも格段にエンタメは戻ってきている。ただ、未だに私は彼らのライブを生で見れてはいないし、あの大阪の日(それはEXILEだけど)いえなかったおかえりは今後も一生、言うことはないだろう。次、がいつ来るか分からない。
(それでも映画やドラマ、身近である公演は行けてるので、贅沢言うなと言われれば本当にそれまでなんだけど)
それは私個人の話だけにとどまらず、世界全体がまた「元通り」から一歩遠のいたような雰囲気に包まれている。
もうそろそろ、元通り、を諦めて忘れてしまった方が楽になる頃合いなのかもしれない。



ともかく、そんな中で発表された三代目の新曲を私はなんとなく聴くタイミングを逃していた。
流れてくる評判にいつかの「明日」を約束してくれる曲なんだろうと悟ったから尚更、手を出せなかった。
のだけど、機会があって曲を聴き、書きたくなったので書く。





柔らかな光の中で、たくさんの額縁が下がっている空間でツインボーカルであるおみさん・隆二さんが柔らかな歌声で歌っている。
そしてパフォーマーの彼らが人々の生活にそっと寄り添う。


最初に響いた歌詞は

君からのメッセージ 指先で小さく贈るハート

というワンフレーズだった。
Instagramのいいね、をクリックすると可愛らしく赤くハートが瞬くし、
最近じゃTwitterもハートがぱちぱちと光る。


いいね、は時に承認欲求のモンスターみたいに揶揄されることがあるけれど、
それでも、好きな人に贈るハートはそんな化け物みたいに言われることではないと思う。
そして好きな人から贈られるハートにはほんの少し、いや結構にこにこと嬉しくなったりする。


SNSは、人と気軽に会いにくい今、重要な"ひと"を感じるためのツールなのだ。
もちろん、それは人によっては眉を顰められるような、SNSとリアルな人間関係は違うよともう1000000回聞いたような嗜めを受ける「若者感覚」なのかもしれない。



それでも例えばいま、だらだらと無意味に友達とお酒を飲んで話したりとかそのまま寝落ちたりとか
ちょっと良いカフェ見つけたからケーキセット食べない?とか
会った時のハグとか

そういう一切が「しない方がいいこと」になるなら、文字と少しの画像を使っての誰かとのシェア、をコミュニケーションと呼びたくなっても、良いじゃないか。


そういえば、三代目J soul Brothersの楽曲『Summer Madness』では

そのケータイのカメラじゃきっと写りはしない景色がこんなにも
世界には溢れている

と歌っていたし、

『RAISE THE FLAG』では

スライドされていく画面越しの
HYPEBEASTじゃ掴めない

と歌っていた。
なんだか、その彼らが画面越しのハートを「贈る」と表現するのは素敵じゃないか。



いやなんだろう、きっとこれは私の受け取り方の話で、もしかしたら少しズレているのかもしれない。
実際、この曲の後に続くフレーズでは、
肌身や温度感を伴っての生活への恋しさを歌っているし
既読もつけずに過ごしてたりもする。


それはやっぱりSNSじゃ満たない、と言ってるというよりかは、そこにある時間や思いを優しく肯定しているように思えるのだ。


MVの中で、様々な人の"生活"が映し出される。家族や恋人、友達と過ごすその時間はSNSで切り取るには何気なかったり、
大切な時間だとしても、それは「特別」とは少し違う。
きっと日々の中に埋もれていく時間だ。


ライブに行く時の高揚感とか、ちょっとお洒落したいって気持ちとか、
あと何日って指折り数えるその先にある大好きな「特別」ではない。
この一年と少しの間にかろうじて残った「日常」だ。


その景色を、三代目の彼らが優しく見ている。
見てはいるけど、干渉しない。そして見られている「私たち」は彼らの存在に気付かない。



ライブが戻ってきた時、自分たちのことを覚えてくれているだろうか。



そうLDHの誰かが言っていた。
ライブがなくなったとき、私たちだって会えなかった寂しさがあったけれど
それ以上に自分たちの「強み」を活かせなくなったと思った彼らがどれだけの不安と一緒にいたんだろうかと思った。
人気商売、というシビアで道らしい道のない場所にいる彼らにとって「自分たちの武器」である「ライブ」をできないこと。
もちろん、LDHの活動は多岐に及ぶ。音楽やアパレル、バラエティ、役者業。色んなことを彼らは手がける。それでもそれら全ての根っこにはライブがある。歌とダンスで作り上げる彼らにしかできないエンタメがある。


そのライブがなくなった時、自分たちがファンの中からいなくなった、と思うことがあるかもしれない。
そんなことをふと、ただ人々の生活を見つめる三代目の姿を見て思った。その想像は、わりと苦しい。心臓がギュッとする。
それでも、柔らかな歌声に思う。



三代目を好きになって、振り返って過去の曲を聴くと昔の思い出の中で彼らの曲を耳にしていたことを知った。
大ヒットし、彼らの運命を大きく変えたR.Y.U.S.E.Iはもちろん、C.O.S.M.O.Sや花火は大学時代のバイト先でしょっちゅう流れていた。あまりにもよく流れるからサビくらいは口ずさめるくらいに刷り込まれていた。
そしてそのメロディは聴くと当時の会話や光景を思い出すスイッチになったりする。


もっと言うと、好きになって以降聴いた曲にはさらに鮮明に思い出が詰まっている。
何回も聴いたり観たりしたEeny, meeny,miny,moe!を聴けば、カラオケで飲みながらきゃあきゃあ騒いだ記憶が蘇るし、
Rat-tat-tatを聴けば自然と身体が踊る。



show must go onとはいうけれど。
当たり前の約束は、いつでもなくなる。ずっとあると思った毎日の幸せは、実は結構脆かったりするのだ。
mustなんていっても、いくらでもぐしゃぐしゃに握り潰されてしまう。

だけど、ライブがない中でも、何気ない一瞬に、彼らの音楽や存在がある。見えないくらいささやかでも触れ合っていなくても。



恋しい、あなたに会いたい。
そう思うことで、自分にとってなくなったそれがどれだけ大切かわかった。
ライブが当たり前で、何度も色んなところに通った日々が遠くてそこに帰る方法も分からない今、時々あえて遠くに好きを置きたくなることがある。
実際、会場いっぱいに人が入ったライブ映像を観るのがしんどくて観るのをやめていたこともある。今でも、「行けない」ということを直視したくなくて、そのために彼らのことをまるごと考えないようにする日だってある。



それは、もしかしたら不誠実だと言われるものかもしれない。
それでも今回、曲を聴いて相変わらず好きで大切でそれは「変わらない」と言っても良いんじゃないかと思った。
そしてああ、手を離しちゃダメだ、と思った。
どんだけ些細な繋がりでも、薄いように見えても、何があっても、手を離しちゃダメだ。
音楽を聴いたり可能な限り何か彼らの活動に触れられるように手を伸ばしたい。できるかぎりにしか、ならなくても。



そして、それでもそんな会えない時間を憎みたくはないのだ。画面越しでしかない触れ合いを「意味がない」と切り捨てたくもない。足りないといってしまいたくだってない。



会えない時間が愛を育むだなんて手垢にまみれた話なんかじゃなくて、
今もこの瞬間も変わらず好きで、彼らは歌い踊っている。
同じ時間を、毎日を生きてるのだ。
だとしたら十分、それは愛するに値するし、いつかその毎日は季節を重ねて、待ち合わせの明日に辿り着くだろう。