えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ハンズアップ2022

※ネタバレを大いに含みます


「そうするしかなかった」ように思えた。それしか選択肢がないように思った。
オープニングの映像で流れた言葉を見終わってずっと考えてる。


その言葉は、初演でもあったはずなのだ。そしてその初演を私はDVDで何度も何度も見ていたはずなのに今回ほどの強烈な印象を何故か私は覚えていなかった。演出の方法がそんなに大きく変わったわけじゃないだろうに、なんでだろう。


安里悠児は言う「可能性なんて10%もない」
この台詞は、初演を観た時から大好きな台詞だった。だけど、あの頃より私には切実に迫った。そんな気がする。
奇跡を信じられた方が嬉しいから、という言葉に確かにな、と頷いた。
初め見た頃は、どちらかといえば「10%よりも多いなんて余裕だな」と思う時に思い出しがちだった。
安里悠児が、あるいはあの洋館に集まったみんなが賭けた場面よりかは全然余裕だ、そう気持ちを落ち着けるために使った。


それが今ではどうだろう。


当たり前なんてないんだと思うことが増えた。
幕が開くこと、下りること。無事に楽しみな予定を迎えることができること、自分が大事な人が生きていること。
だというのに、私たちは気を抜くと"当たり前"に飽きてしまう。くだらないとまでは思わなくても大事にし損ねてしまう。
だからこそ、「奇跡が起きた」と思える方が嬉しいんじゃないか。
そんな風に今回、思った。


今回、ハンズアップも耳蒼も何度も観たはずなのに初めて引っ掛かるようなところで言葉が、表情が、刺さるような感覚がたくさんあった。

10%の台詞もそう、それから、そうするしかないように思えた、という言葉も。



それは、洋館であの変な声に導かれながらゲームに従うこともそうだし、それ以上に「死ぬしかない」と思ったそれぞれのいつかの瞬間のことなんだな、ということが妙に心に迫って苦しくなった。
俯瞰して見れば、他人事だと思えば、落ち着けば。
そんなことはないし、それ以外にいくらだって選択肢があるはずなのに何故か強く「それしかない」と思ってしまうこと。


その感覚がオープニングのあの言葉でひりひりと迫って、冒頭、14人が揃ってるのを見た時点でかなり胸にきてしまった。
それは私のこの数年での変化もあって、そして何より演じている人たちの変化があってなんだよな、と思うと無性に嬉しかった。
ああ今から、私は出会い直しをするんじゃなくてまた新しく出会うんだな、と思った。


ボクラ団のでの再演にあたって(と書きつつ、他団体での上演は見ていないのでいつからのリライトなのか正確には分からないけど)初演からいくつか変わった設定がある。
そして演じる役者さんが変わったところがあったり、同じ役を演じていても歳を重ねているからこそ表現が変わったところもある。
その一つ一つが愛おしくて嬉しかった。



たとえば、物部夫妻。そう、夫妻!
初演から大好きな二人で、初演の大神さん・真凜さんペアが好きすぎて、このお芝居の掛け合いが生み出すものがほんっとうに好きだったんですよ。
テンポも抑揚も表情も。いっこいっこ語れるくらい好きで、だから今回、すごくどきどきしていた。
これは今まで色んな「再演」を見てきたなかで自分に警戒しているところなんですが、初演を覚えすぎるあまり「ここが違う」と違和感探しをして没入できないことが度々ある。今回も、初め、そうして「あ、ここが違う」と思う瞬間はあった。
あったけど、このキャサリンさんのことをどんどん好きになっていった。それはたぶん、彼女の眼差しの柔らかさが心地よかったからだと思う。
真凜さんのキャサリンがどこか張り詰めたところがあったとしたら(そして私はそんなところが大好きだったんだけど)この片山さん演じるキャサリンはどこか余裕のようなものを感じた。それはどういう解釈から来るんだろうな、と考えながら、私は物語を楽しんでいた。



そしたら、そしたらですよ。



大神さん演じる物部さんの台詞に涙腺をぶん殴られ、気がつけば嗚咽を必死に噛み殺すことになった。知っているからこそちょっと俯瞰して見れていた感覚は泣きながら喋る物部さんに見事に奪われてしまった。
でもそうして愛おしくなるとやっぱりより、大好きな初演の影がチラついてしまう。なんとも言えないぐるぐるが迫り上がった時、キャサリンが後ろから思い切り頭を撫でた。
それを見て、もう、なんか、すごく嬉しくなった。奥さんだからか、とその時、全部がストン、と腑に落ちた。


あの瞬間、なんか、ものすごく嬉しかった。やっと思い出した?と問いかける声が優しくて、ああそういう景色もあるのか、とびっくりした。


思えば、今回の再演はそんな瞬間がたくさんあったと思う。


例えば、初演の思い入れという意味では大好きな役者さんが演じる中曽根さん・宗介(苗字の漢字めちゃ難しいな!)さんペアがどう映るのかもドキドキした。そして実際、違いを楽しもうと気合を入れて見たりもした。
ただ、見ていてどんどんふたりのことも改めて好きになっていったので、心配はほぼ杞憂に終わったように思う。
友常さんが演じると中曽根さんはすごく人間臭くなった。
酷いな、と思うところもなんか、人間くさく酷くて、そしてそれを凛太郎さんがコミカルに受けるので、可愛らしいコンビに思えた。面白い、というよりも可愛い。
だけどその二人がやがて互いにある因縁に気づいた時の会話が、すごくお互いに向き合っているように思えて好きだった。
人間みのあるふたりが言う「自分の命の重み」が分からなくなった時の苦しさは、なんだかより身近に感じることになった。



鷹野百合劇場の印象は、今回、私が観た回が図師さんゲストだったせいか、より映像で見た時とは全然違った。
だけど何より、彼女に対して印象が変わったのは最後の無声芝居での笑顔だろう。
虚言癖の台詞の中で「私の口から決して出ることはない本音を言えば」という台詞が好きだ。
そしてその台詞の苦しさがようやく晴れたような気持ちになれるあの瞬間の微かな笑顔が本当に嬉しかった。ようやく捕まれたという安堵、それが本当にものすごく、嬉しかった。



吉田宗洋さんが演じる黒鉄明は、初演に近い印象があって、それもまた面白いな、と思っていた。特に宗さんはどちらかというと格好良かったり、クールなお芝居を私は観ることが多くて、でも初めて観たのは時206の兄だったので、なんか懐かしくて嬉しかったというのもある。
でも、ラスト「生き直し」の時の彼の格好良さに、やられたー!と思わず心の中で叫んでしまった。いやもうギャップ。ギャップよ。
そしてそれこそ、宗さんの魅力全部詰め過ぎて最高のキャスティングだと思った。



バンドブリジッドジョーンズのふたりは、ほのぼのとした印象が嬉しかったのとともに、ずっと楽しそうなことが嬉しかった。
あのふたりが音楽をやるシーン、楽しそうで本当に好きだ。どちらかといえばメインはコメディ要素を担当している彼らが愛おしく思えるかどうかは、このお芝居の印象を大きく変えると思うので。
DAICHIがひたすらに可愛くてニコニコしてて、ふたりでじゃれあうシーンが可愛かったことは、軸がしんどいテーマなこのお芝居のなかで、癒しだったと思う。



そして、そのライブシーンでの春原さん演じる橋本麻由美さんが本当に好きで。
橋本さんが、恋愛としてNAOTOのことを好きになるかっていうのは時々初演を見た時から考えてたんですが、今回、より「や、少なくともしばらくはないな」と思ったりして。というよりかは、きっと、そういう恋愛として好きになるかどうか、なんてことは入り込む余地なく、ただただバンドとして人として彼らやNAOTOのことが好きだったんだなあと思った。


それでも、だからこそ、あの最後、NAOTOの音楽に応えて手を挙げる瞬間が嬉しかった。
初演の時以上に彼女から受ける痛々しさが増していて、男性不信というだけじゃなく、人間そのものに対する不信感とか、たくさん傷付いたんだろうな、というのが苦しかったからこそ、あの時、彼らの音楽だとか存在がどれくらい嬉しかったのか、物凄く伝わる気がした。
ふたりが恋愛に発展するかどうかはわからないけど、別に発展しなくても十分奇跡的で幸せな関係だと、あのふたりの笑顔を見て思った。



キャストが変わったことによる劇団員の方々のやりとりも最高だった。
例えば、冴子と牧村のアイドル・マネージャーペア。殴るのとか、容赦のなさがこの劇団での数年を感じさせた。テンポも相性もすごく良くて、その中で最後、ふたりの「え、そうなの?!」がちょっと切なくて可愛かったりして。
なんか、私は高橋さんの少しズレたお芝居がたまらなく好きなのですが、きっとそれは牧村のことが大好きだからなんだろうなって思いました。


それから佐知川幸子のパワフルさにああこの人はきっとお芝居が楽しいんだなって嬉しくなったし、その上で、最後幸子を抱き締める冴子が、いや、花崎さんを抱き締める空さんにぐっときた。

なんだろう。

お芝居に過度に役者さんを重ねるのは失礼だと思うんだけど、でも、やっぱり「その人が演じたからこそ」な場面はたくさんあって。
そういう意味で、色んな人になんだかんだ愛されて大切にされる幸子を劇団員の花崎さんが演じているのが嬉しかったし、その中で生き生きと演じられているのを見て、勝手ながら良かったなあと噛み締めてしまった。



それから、安里悠児と冴子という意味でも劇団員ペアが見れたのが嬉しかったし、ここもまた年月の変化を感じた(年月云々は私の変化な気もするけど)
最後、ふたりの会話のシーンが物凄く切なくて。
ああ、このふたりは生きていくために「言わない」ことを選んだんだな、と思った。
こんな長々とブログを書いて説得力はまるでないけれども、でも言葉にしてしまうと野暮になったり、変わってしまうことは多い。
言わずにいるから変わらないもの、大切にできるものはたくさんある。
言わないから、言葉にしないからそこにないというわけではないように、言葉にできないその複雑なふたりの愛情というか心のようなものをこの大好きな役者さんおふたりで観れて、本当に良かった。



そして、一番私が今公演、初演から印象が変わったのは添田さん演じるアルフレッドさんだと思う。
本当に疲れているように見えた。自分を覚えているひとがいないことにどんどん傷付いていくさまに、本当にしんどくなった。しかもそれは鮮明に傷付いていくというよりかは、ガリガリと静かに、でも確実に削られていくのだ。


一回目のゲームの参加者についても初めてこんなに想像したかもしれない。もう疲れた、死にたくてそうしたんだと手をあっさりと挙げていっただろう彼らについて想像する。



それも、一つの選択肢だと思った。


今まで、アルフレッドさん……いや、芹澤修一がそれでも手を挙げた先、助かっていたらいいと思っていた。ペナルティという形でも構わない。生きて欲しかった。あのゲームの中だけで出会った人で判断しないで欲しいとも思ったし、たとえ、俳優としての芹澤修一じゃなくてもきっとあなたを大事にしている人はいるのに、とも思っていた。
でも、あまりにも今回、そうして削られていくのを見て、助からない、というのだって、一ついいんじゃないか、とも思った。助かっては欲しいけど。
死んでしまったとして、それを「どうして」というのだって酷いんじゃないかと思った。


最後、無声芝居で手を挙げる芹澤修一は、幻なのか、それとも生き直していく彼なのか。たぶん、これからもずっとずっと、考えるんだと思う。



「課せられるペナルティ」…それが本当に死なのか、あるいは生き直すことなのか。でも結局それは突き詰めていけば同じところに行き着くのかもしれない。
いずれにせよ、一度はいらないと思った命を心底生きたいと思わせることはとんでもなく酷くて、それから、優しいと思った。


そんな奇跡は、本当は起きない。
現実ではきっと、そんなことはありはしない。


ところで、久保田さんの作品ではこのハンズアップをはじめre:callやレプリカなど、本当にはあり得ない「命の奇跡」が主軸になったものが多い。



物語として捉えること、俯瞰すること。それは耳蒼の感想でも書いたけど、ハンズアップ2022でも何度も考えていた。
何度も何度も、ボクラ団義の、久保田さんの作品で「生きていくこと」を考えた。
そして今回、暫定の最終公演の中で、ハンズアップにもう一度出逢って、やっぱり私は生きていくこと、を考えている。
疲れ切っていくように見えた芹澤修一や一回目のゲーム参加者が諦めてしまうことを「そうだよな」と感じながらも、それでも、やっぱり、「生きたい」と「なんであんなバカなことをしたんだろう」という彼らに嬉しくて、ああそうだよな、と思った。
きっとこれからも、私だって疲れ切ったりすることはあるだろう。「それしかない」ように感じることだってあるかもしれない。
だけどきっと、そんな時、もしハンズアップで出会った彼らのことを思い出せたら。
きっと、私自身がそうは思えなくても、生きようと思った彼らを大切に思えたことを反芻はできると思う。



ボクラ団義の公演はオープニングアクトや途中で入る無声芝居でそこからの伏線を描いていることが多い。
それは初見でもなんとなく「ああここは因果関係があるのかな」と気付くこともあるし、二度目以降、「ああだからこんな表情をしていたのか」「この人たちは対になっていたのか」と気付くこともある。


私はそれが、大好きだ。


何度も何度も、出会うこと。
正直にいえば、今公演ハンズアップも耳蒼も思い入れがありすぎて、観るかどうか本当に迷っていた。
見ることに決めたのは、ボクラ団義に出逢った頃の自分をがっかりさせたくなかったからだ。だけど、見終わった今、今の私として本当に観て良かったと思っている。
大好きな、繰り返し何度も観た初演も変わらず大好きで、そして今回のハンズアップ2022も耳ガアルナラ蒼ニ聞ケも大好きだ。
再演とは、好きなものが変わる、ではない。好きなものが増える、だったのだ。



そしてそれは、出会った頃から今まで、互いに生きていたからこその「嬉しい」なんだと思う。
だから私は暫定、であることに物凄く希望を感じながら、色んなことがある毎日を今回増えた宝物を大事にしながら過ごそうと思う。
そうして過ごしていればいつか、また、宝物が増えてる日がきっとやってくるので。