えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ピーズラボ 異界の魚、尋問(12月12日公演)

ピーズラボ


面白い芝居に出逢えた贅沢。その瞬間の心にぶわりと色んなものが湧き上がる。
あれが具体的にどんな時に湧き上がるのか、またその時湧き上がるものがどんな類のものなのか。私は言葉を尽くしたいと思うのにいつも、うまくいかない。
ただ湧き上がってきてぐらぐらと揺れながらこれだ!と叫びそうになる感じを毎回、噛み締めている。


ピーズラボ、「ジャングルジャングル6」で観た光景を私はあれから何度も反芻している。
ピーズラボとは、私が中でも楽しみにしている配信のある企画である。ここ数回は時勢を見ながら有人観客も始まっているけれど、スタートは配信のみでの企画で、まだなかなか上京が難しいので私は配信で毎度楽しんでいる。


配信ではあるんだけど、このピーズラボに関してはいつも「配信」であることを忘れる。
いや正確にはどうあっても配信、ではあるけれど、画面越しではあるけれど、「特別な記憶」として残る。
なんなら今回、アフタートークになった時、あの劇場に足を運んでいた時のような「カーテンコールにいる自分」の状態になっていた。
心はどこまでも満たされていて、「ここ」にいる感覚。劇場に帰ってきた、という錯覚。錯覚なんだけど、あれはたぶん、本当だったと思う。


さて、今回のジャングルジャングル6は楽しみが2つあった。
1つは「異界の魚」がもう一度観れること、そしてもう1つは「尋問」を観ることができることだ。



異界の魚、とは前回も拝見した野口オリジナルさんによるひとり芝居である。西田シャトナーさんによって描かれたその美しい台詞が野口さんの手で立ち上がっていく光景は、去年、観れてすごく幸せだったものの一つだ。



主人公は、自劇団でも他劇団でも、なんなら観客からも下手くそと言われてきた男。彼は至高の芝居をした時だけ観れるという稽古場の魚を待つ。


観客のリアクションで芝居が変わっていく。そうも感じるし、だけどどこまでも自分と見つめ合う、そんなお芝居で私は不思議と寂しくなく、むしろ、一緒に深く深く、海のようなところに潜っていくような感覚に陥る。


この舞台で語られるのはお芝居への言葉だ。それをただ、愛情というのが私には憚られる。かと言って憎悪というのも全く違う。ただただ、彼の中に湧き上がる言葉、それだけだ。
そして私はそれを聴くのが好きなのだ。魚に、あるいはお芝居そのものに語りかけられるその言葉たちは手を伸ばす。本当にいるのか、いたとして意思の疎通が図れるのか分からないそれに必死に言葉を尽くす彼や彼の姿が私は愛おしく好きなのだ。


「最高の演技ができた時、観客はみな、その台詞を私が言ったと錯覚するという」



その台詞は、前回だってあったはずだ。だけど、今回、私はこの台詞を聴いて今まで見た芝居の幸せを思い出した。
ある劇団のお芝居を見ていて自分の奥深くに抑え込んで黙らせた気持ちがずるりと舞台上の台詞と響きあって出てきたことがあった。出てきて、あああんなにしんどかったのはこれが塞いでたからか、と驚いた。



劇場では稀に、そんな奇跡が起こる。
没入しすぎたせいで生まれた感覚か、それともお芝居への勝手な共感か。


私はともかく、そんな懐かしい景色と目の前で繰り広げられるお芝居に、二重に泣いていた。
最早、どっちに、とかではなかった。
劇場で起きてきた奇跡を、ひとつひとつ私は覚えている。


生活に追われていると何をどう好きでいたらいいのか、何をどうしていたら好きだと言えるのか分からなくなる。
生活が苦手なせいだとは思うけど、好きと生活を両立させるのが難しく、そして手放すのが簡単なのは"好き"のほうだったりする。だって、好きだから。それを手放す方が苦しいから。苦しいことをしているときは「これだけ苦しんでるんでもう勘弁してください」と白旗を振れるから。
とにもかくにも、そんな情けない思考回路に溺れがちの私は、しかし、異界の魚を観て深く深く息をしている



劇場で起きてきた奇跡を私は覚えている。
そのシンプルな事実を、異界の魚の彼の姿に思い出す。
お芝居というものへの祈りのような、怒りのような、愛の宣誓のような言葉が、野口オリジナルさんの身体を通して発せられる。
大学時代、お芝居に何故こんなに惹かれるのか知りたくて能楽狂言を勉強した。捧げ物として奉納される演目について学んだことを思い出す。なんだか、そんな感覚に近い。
観てから半月ほどが経った今も、私はおまじないのようにメモした異界の魚の台詞を思い出すし、あの時目撃した景色を、表情を思い出す。そうすると溺れたような感覚は少し薄まって、代わりにあたたかく感じに包まれるのだ。



さて、さて、そして尋問だ。
尋問は三人の役者で演じられる。二人は脚本を知っていて、一人は最低限の設定だけ知らされ、舞台にたつ。そしてそのひとりこそ、舞台の主役なのだ。


大好きな高田淳さんがその役を演じるその贅沢と幸せをどなたかお分かりいただけるだろうか?


即興劇、とだけ言ってしまうと違う。何故なら目指すべき大きな道のりはあるのだ。でも、それがどんな光景になるのかはその主役にかかっている。
目の前、何度も光がスパークしていたような気がする。
物語を知るふたりの平野さん、林さんの顔を観て呼吸を聴き、淳さんが台詞を吐く、それに呼応して物語が形を変える、そこに乗っかる。
かつ、単に整った物語になるだけじゃなく、即興だからこその遊びもあるのだ。



アフタートークでも話題になっていたけれど、淳さんの台詞運び、間合いが何度見ても「本当に台本ないの?」と驚くそれだった。



ところで、お芝居の好きなところはたくさんあるんだけど、ひとつは「その瞬間は初めて」というものである。キャストもスタッフも台本があり、練習が(今回の尋問は三人での稽古はないけど)あり、リハがある。それで何度も聴いた・口にした台詞だとしてもその役は「初めて」その瞬間を迎えるのだ。
それが初めてであればあるほど、その瞬間、初めて変化するほど、その美しさに私は震える。
生きているひとが作る理由はそこにあると私は何度も何度も、思ってきた。


そういう意味で、尋問は本当に「初めて」の瞬間だけで構成される。
尋問を一度でも観たひとはその瞬間、その作品を演じる資格を喪失する。そんなたった一回、奇跡のような大切な一回。
(そういえば、そういう意味では謎解きやマーダーミステリーにもちょっと似ている。確かに私はそれらがそういう理由で好きなのだ)


ただ、生きているなか、日々の生活だってそんな一瞬で構成されているのにお芝居のようにどきどきしないように(する時がゼロなわけじゃないけど)ただ「初めての瞬間」だけじゃ、たぶんひとは感動しない。物語にはならない。
この尋問がすごいのは、その初めての瞬間を緻密な計算によって物語になるように設計されていることなんだ。
目の前の観客が楽しめる物語であること、それをすごい技術をもって即座に反応して作り上げること。
いやほんと、あれ、何事だったんだろう?いまだになんでそれが可能か分からない。本当に。
一つには、尋問という物語の設定構図が絶妙だった、ということだろうし
もう一つには、脚本を知る平野さん、林さんの懐がものすごく広かったというのもあるだろう。


誰がどんなふうに演じるかで物語の空気感、ジャンル、メッセージまでも変わったらしい感想を読みながら私はともかく震えてしまった。
いやもう、そんなの、あまりにも最高じゃないか。


そして、そこで大好きな役者さんである淳さんが本当にとても、めちゃくちゃ、格好良くて嬉しかった。

私は淳さんのお芝居が好きだ。
彼が口にすれば舞台上で全てが現実になる。そんな魔法を使える気がする淳さんのお芝居が好きだ。
次は一体、どんな言葉を口にしてどんな動きを見せてくれるんだろう。
そうわくわくさせてくれるから、心の底から好きなのだ。


そして尋問は、文字通り「予測不可能」なお芝居を淳さんは見せてくれた。その上、台本はないはずなのに、とびっきり格好良い台詞を聴かせてくれた。


それは、単に「整っていた」からすごいのではない。面白かったからすごいのではなくて、
あの時、あの舞台上、高田淳さんではなく「彼」がそこにいて心を動かし、泣いて言葉を紡いでいたから好きなのだ。
淳さんが舞台上で使う魔法の最たるものは、そこにその役を生きさせること、そしてそれがとびきり愛おしいことだと思う。


本当にたまらなく、幸せな時間だった。
そしてその時間は私がお芝居を観る理由が詰まりに詰まって、全部載せだったような気がしているのだ。


おかげで、私はその時のお芝居を観た幸せを何度も何度も噛み締めて過ごしている。
それはいつかまたどこかで劇場で起こる奇跡と出会った時、よみがえる幸せなんだろう。