えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

リコカツ

もう十二分に有名な主演のふたり。
それぞれに好きな作品があり、もう「ある程度」その魅力を知っていると思っていた。
ところが、そんなのは全く、思い上がりだと思った。
色んな作品でその魅力をたくさん見せてきてくれたおふたりはまだまだ、と言わんばかりに本当に魅力的で夢中になってしまうお芝居を「リコカツ」で見せてくれた。


中でも驚いたのは瑛太さんだ。
まほろ駅前便利屋多田軒をはじめ、好きな作品がいくつもある役者さん。だからこそ、最初から楽しみだった。
そして初まり、お、コメディでこんなお芝居もするのか、とライトに楽しんでいた。そっかあ、と滲むような彼のお芝居が好きな私は「またこれはこれで」なんて思っていたのだ。

それが、次第にとんだ表面しか見ていない感想だと気付いたのは、話数がそこそこ進んだタイミングだった。


頑固で変わり者の、旧時代的な自衛官
そんな役柄の彼は声を野太く作り、表情や仕草を大袈裟にデフォルメ化して演じていた。
それはそれで、ああこんなコメディなお芝居もあるのか、と思っていたけれど、離婚届を出す回、剥がれ落ちるように零れた彼の「そのままの声」にぶん殴られたような心地になった。



そうか、そうか、紘一さんはこんな人なのか。


それは単純に演技どうこうの話ではなかったと思う。デフォルメ化した芝居を見せてきたからこそのギャップというだけの話でもない。
きっと、演技の技術という話だけではなく、「緒原紘一」という人はこうなのだ。
厳格な自衛官であり、守る人であり、規律の人。そこにある自身の感情はずっと二の次にしてきた人。「こうあるべき」で固められた彼の顔がぽろりと剥がれていく。


寂しさやままならなさ、自身への怒り、そして何より咲さんを愛おしく思う気持ちがその剥がれた部分から覗くのが、心底愛おしかった。
あれは、本当に出会えたことを幸いと呼ぶタイプの奇跡的な瞬間だったと思う。



そして、それはこの作品の根幹のテーマと合わさった時、すごく優しい物語を紡いだように思うのだ。


最初は正直に言えば、「リコカツ」というタイトルになんとなく苦手な気配を察していた。離婚をそんなライトに描かれても、と思ったし、離婚から始まる恋愛ストーリーねえ…と一歩どころか十歩くらい引いた気持ちでいたのだ。

しかし、実際にドラマを観ながらその感覚はどんどん覆った。ほぼ交際0日に近い形で始まったふたりの結婚生活が破綻に近付きながら、同時にふたりが互いを知っていく。
もう離婚だ!と決めてからお互いに惹かれ出すふたりを観ながら、知るってすごいな、と思っていた。


なんというか、これはリコカツに限らず、同時期TBSで放送されていた「着飾る恋には理由があって」にも言えることな気がするけれど、
人と人との関係を継続させるのって、トキメキなんかじゃないんじゃないか。
それよりも、知ろうとすること、話すことなんじゃないか。
咲さんと紘一さんのそれぞれの両親がまさしくそうだ。自分の中で勝手に作り上げたふたりのストーリー(しかも自分にかなり都合が良いもの)だけを後生大事に抱えてしまえば、それは壊れて失くしてしまう。
そうじゃなくて、自分が思ってること、相手が思ってることを一つ一つ言葉にする必要があふのだ。他人はそもそも分かりえないし、なんなら自分だって本当に何を考えてるのかは言葉にしないと分からないんだから。


離婚する理由は100個ある、と言いながらいざ言葉にしていけば早々に詰まってしまった咲さんと紘一さんを思い出しながら、そう思う。


そして、同時にもちろん、そうした上であるいはそうできずに「お別れ」を選ぶ選択肢もあるのだということを、「リコカツ」はそっと咲さんの姉、楓さんの姿で描いた。個人的にはもう少し彼女の話を見たかったような気もするけど、尺的に難しかったのも事実だろう。
少なくとも、なんとなく、で関係が修繕されました!と描かれなくて、良かった。


人と人との関係を継続させるのは、トキメキなんかじゃない。そう書きはしたけれど、同時に、リコカツは人と人が相手を知ろうとして言葉を尽くしたその先に、トキメキも愛もある、とも描いていたように思う。
最終回、ふたりの幸せそうな笑顔は、他人と暮らす毎日の美しい希望の形だった。