えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ぶっ壊れたフォーカス

疲れてる。著しく疲れてる。仕事で、と言えたら良いけど、どちらかというと森羅万象に、の方がしっくりくるから困る。
おかげで、せっかく入れた楽しい予定に「この状態になってる自分が行って迷惑をかけないか」をずっとぐるぐる考えることになる。
大体そういうのはそういう考えに落ちて「すいません、やっぱり行くのはやめます」と言う方が困ると同じように考え込んだせいで知恵熱を出し、予定を急遽やめてしまったあとに友だちに懇々と説かれた。説かれるまでもなく、全くもってその通りだと思う。





最近、よく思い出すことがある。
大学時代に参加した飲み会の最中。なんだか「分かり合えてるよな」「仲間だよな」というその場に蔓延する空気に妙にイライラしてしまい、抜け出したトイレで「飲み会やSNSで本音っぽいものを聴けたって勘違いして人の距離バグるのだるい」とTwitterでぼやいた。




今の自分からするとそれを他でもないSNSで呟いてることも十分だるいし、飲み会嫌いを拗らせ過ぎだし困ったやつだなあって感じである。
案の定、その時は先輩からリプライがきた。SNSはともかく、飲み会をそんな風に思うのはどうかと思うという旨の内容で可愛げも素直さもない私はあの時たしか「うっせーな」と思いながら「すいません」とだけリプした気がする。
どうでもいいけどSNSでそういう話をすんじゃねえ、直接話せ。






でも、たぶん、この時のだるいな、という感覚はずっと自分にあるんだと思う。
本音っぽいものの人間関係での劇薬っぷりはすごい。営業をやってると「自己開示はなるべく先に行うこと」と言うハウツー本を見るが、それもそういうことなんだと思う。
「この人は自分に本当のことを言ってくれている」「自分にだけ秘密を共有してくれている」という事実はとんでもなく甘美なんじゃないか。






あの時目の敵にした「飲み会」も「SNS」もそういうものがたくさん生まれる場所であり、だからこそ私は大好きだし同時にどうしようもなく嫌いなんだと思う。







フォーカスの調整バーがぶっ壊れてるのかもしれない。
そう思うことがよくある。
全現象、全事柄に自分が「一家言」持ってる気がする。いや、もっと言えば持っていないといけない気がする。
Twitterをしているとよく、炎上している何かに対しそれが普段自分に関係があること、関心があることに関わりなく覗きに行って自論を広げたくなる。
何気ない一言をあるいは写真一枚を隅から隅まで拡大して解釈して、「解説」する。




なんでそんなことをしてしまうかと言えば、全部が全部見えるからだ。正確には「見えている」気がするからだ。
そして「発信する場」があることでイコールそのまま「発信すべき」「発信していい」になる。
まるで、何かの中毒みたいに指が動くさまに自分でうんざりする場面がよくある。
そしてこの文章自体だって、そんなところを、大いに含んでいる。






何かを誰かをそして自分を拡大化して縮小して訳のわからない縮尺で過ごしているのは、すごく疲れる。



それに疲れたな、と思うとどんどん思考が雑になって「あー全部やめだやめだ、ばーか」と言って放り出したくなる。でもなんだか、今回はちょっと考え込みたくなって、なんで疲れるんだろうな、と思った。それでもう少し整理して考え込む。





言う権利がある、と思うのは良い。良いんだけど、私は果たして本当にそんなことが言いたかったんだろうか。
誰かの心を、わかったと言ってもっともらしく解説したかったのか。世界の全部を知ってると思いたかったのか、そう思われたかったのか。
誰かをコテンパンにのしてしまったのか。





たぶん、違うのだ。そんなことがしたくて、言葉や思考を使ってるわけじゃない。
くだらないと思うことは多くても、どっかで面白いや楽しいが最後には残るんだと信じていたい。だから、「なのに何をしているんだろう」とうんざり来るんだと思う。

狂ったフォーカスで嫌なことや理不尽を見るよりも、面白いこと、楽しいこと、素敵だと心がわくわくすることに焦点を絞りたい。それを大きくして広げていきたい。




そう思ってると、気持ちのモヤモヤがほんの少しマシになった気がする。
こんなことを言ってても、不意打ちで次の瞬間には誰かを殴るための拡大縮小をしそうになる自分がいることは決して忘れないようにしながら。
それでも、自分の頭や言葉を私は、自分の好きなもののために使いたい。それはきっと簡単では、ないんだろうけど。