えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

複雑骨折ばっかの人生

朝5時前に目が覚めてちょっと嫌な気分になる。何があったわけじゃないけどもう一度寝るのは厳しそうで、でもこれを「早起きは三文の徳」と変えるにはパワーが足りない。そんな時、一枚適当なジャケットを羽織ってイヤフォンを耳に突っ込む。




暗い道、少ない車。ひんやりした空気にマフラーも持ってくれば良かったなって思いながら、道を歩く。
自販機でコーヒーを買っても良いし、コンビニのコーヒーにしたっていい。なんならカップの味噌汁だって素敵だ。





そうやって、素敵を増やしていく。
そもそも、わざわざあったまった布団を這い出してこんな寒い夜明け前の街を歩くのだってそうだ。夜が溶けて、朝に変わる。
たぶんこれが山頂とかなんかそういうとこなら綺麗に昇る朝日が見えたのかもしれないし、もしこの街から見えるのがそんな光景なら私はわざわざ外に出たりしなかっただろう。じわじわ夜の濃度が下がる、朝の光が広がる。そんなささやかさが、私は好きだ。
そこで飲むカフェオレが、私は好きだ。





耳からはお気に入りの日本語ラップ


私の中で向き合えなかった、見ないことにした、なかったことにした「痛い」とか「しんどい」とかの居場所を自分の中にようやく見つけることができたのはこの音楽に出会えたからだった。前なら存在自体なかったことにした自分の中のどうしようもなさを「ああ、在るもんな」とできたのは、それでも、「俺はやれる」と歌った音楽があったからだ。
弱さを消さなくても、否定しなくてもそこ含めてボースティングする、自分が自分であることを肯定する音楽。
ほつれを直すように聴きながら、自分を肯定する。この音楽を生み出したひとのことを想像する。この人にとって昨日は今日は、良い日だったろうかと想像する。そうだったら良いと思う。




生きてるって、複雑骨折し続けるみたいだ。
傷ばっかり増えていくから、続けるのが本当に難しい。
たくさんあちこち折れて、そうしてると「続けるって怪我することじゃないか」と愕然とする。
人生、いい場面、幸せだと思う、良かったと思う、そんな瞬間が一体どれだけあるだろう。





大切が増えれば増えるほど苦しい。
失う痛みに怯えながら生きるリスクを増していく。





なんで、大事と思った人にもちゃんと伝わらないんだろう。
なんで、普通にしてるつもりがどんどんズレて「おかしい」になるんだろう。
大事にしようと思ったものすら、どんどん、失くしていってしまうんだろう。




こうして歩こうと奮い立たせて足を踏み出した瞬間に折れる。転けた拍子に手をついて折れる。あちこち痛くてどこが痛いのか分からないくらいの感覚に気が付けば頭の中で複雑骨折なんて単語がぐるぐると巡っていた。



それでも、その色んなものを否定したくないんだよなあ。
それを「良いもの」と呼ぶつもりもない。しんどいを歪めて、良いものにするのはきっと違う。でもそれをそのまま「要らないもの」と切り捨てずに、折れた骨ごと、愛せやしないだろうか。
折れたところが新しい関節になったりして、それで出来ることが増えたりしないかな、とか、人体構造オール無視な妄想をしたりもする。




不幸や危うさを笑って欲しいわけじゃない。それは不誠実だと思う。
ただ、同じくらい強い力で、いやむしろもっと強い力で自分のズレや不幸を否定したくない、悪いものだと呼びたくない。



その「ダメ」を「苦しい」をひっくり返して最高の伏線だったと呼べる日を待ってる。そんな日を企んでる。



人生にハッピーエンドが約束されていないらしいことに最近気付いた。ようやく諦めがついたと言っても良いかもしれない。
待っていないどころか、ただ待ってるだけなら容赦なく不幸や許せないこと、ヘイトがやってくる。

なら、それを全部山場をより格好良く見せるためのサゲとして利用させてもらおうと思う。






……とかいう、結論を出すまで、ひたすら音楽聴いて映画観てお芝居観たりしていた。
そう思うとエンタメってずっとそういう気持ちに寄り添ってくれるなあと思った。

そう思いながら、CreepyNuts×菅田将暉の「サントラ」を思い出す。
人生を作り話だ、と明るく歌い上げ、だったら自分の好きに綴るといった、その歌に頷く。そうだ、だとしたらこの複雑骨折ぶりを楽しんで、ハッピーエンドまで持ち込めるかどうかも自分次第だ。





出会ってきたエンタメをサントラに自分の人生の盛り上げの手伝いをしてもらいながら、やっていけると思う。




何より、なんでこんなに、と嘆くより、これも面白くなる要素だと思える、そういう自分は嫌いじゃないのだ。