えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

誰も見ることができない双六を降りる

三十っていうのが一つ、節目になるという話は嘘ではないんだろう。ないんだろうけど、どんどんと拗れていく。
このアラサーというタイミングで自分の人生の「コマ」がどこにあるのか確認したくなるというのはよくあることらしい。更に言えば、大体の場合周りとの進め方が気になってしまって、他の人は真っ当に順調に人生を進めているのに、と自分の現状に焦りを覚える。






あの人は結婚をしてる、あの人は子どもを産んで、あの人は仕事で成功してる。
少し前までだったら漠然とした名前のない誰か、もしくは遠くにいた誰かがいたはずのコマを自分のよく知るあの子が立っている。そのことがとんでもなく怖いことだと感じる。そのせいで、途端に自分のいるコマのしょうもなさに苛立ったり逆に自分の持ってるものの素晴らしさわ過剰に話したくなる。





御多分に洩れず、自分も自分のいるコマのしょうもなさ、いやそもそも、コマを進めず、コースアウトしてしまってやいないか、と私も不安になることはある。
このまま自分はどこにもいけずに終わるんじゃないか。
そんなふうに思っていたのにもしかしたら、私ははたから見たら「バリキャリ」のように見えてるのかもしれない、とある日ぼんやり通勤路を歩いてる時に思った。





もちろん、私としてはそんなつもり毛頭ないし実際仕事の状況を思うと「キャリア」ではない。ただバリバリ仕事をやっていて、仕事が結構好きで仕事のために時間を使うことに抵抗もなく、一応は1人で生きていくのに必要な金銭は稼げている。





「バリキャリ」かどうかという問いにはノーと答えたいけどでも「仕事のコマに人生を進めている」と言われたらまあ確かにそうかもしれない。



でもその「コマ」がある双六ってなんなんだ。



結婚や出産だってそうだ。コマがあるから、そのコマに進めていないと「いけないから」で選んでると思うと途端に虚しくなりやしないか。
そもそも、どのコマにいるひともどっか焦ったりしてることを思うと一体誰がその双六の正解を決めてるんだろう。誰も決めてなくて誰も知らないから、みんな不安なんだろうけど。





でも普通に、見えてないんだったらなんでそれに翻弄されないといけないんだよ、と怒りたくなる。私が仕事を頑張ってるのは(頑張りたいのは)それが楽しくて、やりたいことだからだ。
もし「年収が高い方が偉いから」とか「難しい仕事をしてる方が格好いいから」みたいな価値観で頑張らないといけないと思うとしたら私は今以上に家に帰って膝を抱えながら過ごすと思うし、毎日毎日これであってるのか、向こうの方がうまくいってる、とイライラするんだろう。
(まあ、私は好きなことが多いので出費も多いし、お金はたくさんほしいは本音だけども)





ところで、話は変わるけど、人と関わる時に私は「正解スイッチ」が見えるような気がするときがある。どのタイミングで笑えば、頷けば、話を振れば、うまくいくか。スイッチが出現する。時々そのスイッチには丁寧に相槌の言葉や質問、話し方まで書いてあるから、その通りにやるとまあ確かにうまくいく。そういう時、よっしゃ、という気持ちと同じくらい、いやそれ以上に虚しさと苛立ちが私の中で湧く。
何をやってるんだろうな、と帰り道延々と落ち込む。失敗した反省会よりも「それっぽく見せて『これでいいんでしょ』とやってしまった自分の軽薄さ」についての反省会で、嫌になる。




そんな話を、この間、友だちとの旅行の時、夜中、話した。
つくづく不思議だけど、私の友だちはよくもまあそんな面倒で面白くない、なんなら「こいつ最低だな」と思われかねない話を聴いてくれるよな。もしかしたら、思ってるかもよ、と過らなくはないけど、それ以上に「いやたぶんない。多少は思うかもだけど」と思う。






なんで、その友だちたちと一緒にいるのが楽なのか、楽しいのか、好きなのかをまた考え込んでて、それが「そのスイッチ」を押さなくて済むし、そもそもスイッチが出現しないんだ、ということに気付いた。
「こうすれば正解でしょ」なんてものではなく、私はその人たちと一緒にいると「楽しい」「楽しませたい」だけなのだ。正解なんて、心の底からどうでも良いのである。





自分にとって、必要なのは、「ここでいるために何をすべきか」を考えなくても良い場所で時間だ。
「こういう自分だから好かれてるんだろ」と投げやりに近い、少し行儀の悪いやけっぱちを投げなくてもなんでもなくそこにいれることだ。
もし考えるとしても、それは「そうしたい」からなだけなんだ。





なんだか、そんなことに気付いて私はびっくりした。なんか、それってめちゃくちゃ幸せなんじゃないか。





だとしたら、私は訳の分からない双六からは降りたい。私がやりたいゲームはそれじゃない。もちろん、これからも必要であれば、スイッチが目の前に出現した時は押すだろうし、それが「正解なんですねー」って白けた気持ちになるんだろう。





それでも私には、そういう正解を狙わずとも過ごせる時間と場所がある。そんなことを知れたのは、とっても幸せなんだと思うのだ。
なら、窮屈な双六にいる理由が一つもない。