えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

サルカール 1票の革命

スンダルはブチギレる。ブチギレるという表現は不適切かもしれない。しっかり怒る。




「サルカール 1票の革命」は、現代インドを舞台にした政治ドラマである。
政治ドラマ、というけれど、切実な生活の話で、人の物語で、歴史のその先にある今日の物語でもあったと思う。




私がこの映画に興味を持ったのは主人公スンダルを演じる大将こと「ヴィジャイ」さんが大好きになったからだ。初めて観たのは、「マスター/先生がくる」だった。






マスターもまた、現代のインドが舞台であり、そこで描かれる観客へのメッセージが私はとても心にブッ刺さり、すっかり興味を持った。政治的主張も含めて、幸せでいてほしい、そのために行動を起こすことを諦めないで欲しいと画面の向こうから語りかけ続ける姿がともかく印象的だった。それは、彼がそうしながら、観客を……つまり、私たちを信じているのだと心の底から思ったからだ。






そして、そうしてこの「サルカール」を観たことにより、気になり出したヴィジャイさん……このブログでは尊敬と敬意を込めて「大将」と呼びたい……大将がいよいよ「今同じ時代を生きている人なのだ」と痛感し、たまらなくたいすきになってしまった。





ヴィジャイさんは、マスターでもサルカールでも脅威的に強い。途中、敵とはいえ、圧倒的にボコボコにされていく人たちになんなら同情すらした。音楽が流れ、スローモーションになるともう絶対「敵わない」と思う。
その熱量・パワーを持って、この映画ではまず、自身の選挙権が赤の他人に行使され、勝手に投票を済まされていたことに政治と貧富の差、力を持つもの、持たないものの差にしっかりと静かにしかし熱く怒る。





この間、少し前の知人に会った。知人はいつも通り「つくはダメなやつだから」と笑った。要領が悪くて独善的で、無鉄砲だから、と笑っていた。
また別の時は知人から「結婚したら適当に仕事すればって言われて」と苦笑半分の愚痴を聞いた。
そのいずれにも私は猛烈に腹を立てながら「あーはい、いつものアレね」と思った。
いつものアレ。見下されること、バカにされること、いや何よりも「そうして軽んじて良いのだ」とされること。大きいものから小さいことまで、思えば、そんなものばっかだ。




インドでは、投票権の売買が「当たり前」にされる。更に言えば、貧富の差、まだ根強いカースト制などの差別も多くある。
そんな遠い国の出来事、「整っていないことの不幸」そんな風には、感じられなかった。
そこで描かれる物語は、私がすごく、覚えがあるものだった。




当たり前に「踏み躙っても良い」とされること、されるひと、そして、それにされる側も慣れて「何も変わらない」と冷笑とあきらめが蔓延すること。






劇中、貧富の差を、国にある不幸を、誰かを踏み躙ることを指摘されてもなお、誤魔化すでもなく、もちろん謝るでもなく平然と振る舞うひとに愕然とした。しながら、でもそうだよな、とも思った。当たり前、だから。
平等でも、ひととひと、でもない。
善悪の追いつかない歪みきった価値観が、だけど、王道となってしまうこと。
それは、遠い国での出来事なんかじゃない。自分たちの国にも、生活にも、いくらでもある光景じゃないか。





その思いがあるからか、私は気が付けば泣いていた。
圧倒的な強さで薙ぎ倒していくのではなく、一つ一つ、積み上げるように言葉を行動を尽くすスンダルに「出逢えてよかった」と心の底から思った。
諦めたのは、私だった。怒ることに、行動することに疲れて、それよりかは尤もらしく、賢いふりをして受け入れた方が早い。だけど、それは、本当に早かったのか。




スンダルの怒りや行動こそ、愛情なんじゃないか。




観終わって数週間。まだ、ずっと考えている。
正しく怒ること、それは、きっと、正しく生きることに繋がっている。そう信じたくなる格好良さが、確かに「サルカール」にはあったのだ。