えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

畳屋のあけび

畳屋のあけびは、2017年に観た「畳屋の女房」の再演である。再演、といいつつ私の中でそれはちょっとしっくりくるようなこないようななところがあってそれはそれぞれで描かれたことがほんの少し軸が違ったような気がするからだ。

とはいえ、今回、ただどう違ったか、の話をしたいわけではない。むしろそこは主軸ではない。



でも、どうしても2017年のあの舞台の話をしてしまう。それは、私にとってあの舞台が大切だったからだ。それこそ2017年の上演の物語の中口にされたように「あなたを守る物語」であるように思えた。
別にそれはハッキリと全てが鮮明に残っているという話ではなくて、でも「面白いものを観た」という記憶が作ってくれた自分のパーツが本当に好きだ、という話なのである。




さて、それはさておき。畳屋のあけび、の話をしたい。



オープニング冒頭。終戦から数年が経った古い日本家屋で、多々良先生を初め、近所の人たちがなんでもない日常の話のように戦争の話をする。
そのシーンだけでこれが「戦争」を描くものではないんだな、と思う。
描かない、という話でもない。戦争をただ物語的に解釈していかない。消費していかない。
そこで失われた彼らの生活、大切な人、いまだに癒えていない、戻れなくなった感覚。
そういう戦争の痛みの話は生々しくそれがどれくらい大きな傷に彼らの中残っているのかは十分に伝わる。だけどそれは大きな悲劇ではない。ただただ彼らの生活の中にあったものなんだな、と思う。



多恵子さんの言葉が早々にぶっ刺さった。

「思い出したくもないけど、忘れてしまうのはね」

私が畳屋のあけびが好きな大きな理由の一つでもあるけど、そこで描かれる生活が好きだ。
そこにある生活、それは役者さんの会話、照明の温度感、音、舞台のセット。それがどこか、まるでおじいちゃんおばあちゃんの家に帰ったようなそんな気分になる。
その生活が、一度は途切れたこと。明日がくることを信じられなかったこと、毎日覚悟をしていたこと。だから余計に、その生活が愛おしい。
だし、そこで戦争の痛みをああして話すことは、無くさない、忘れないということなんだと思う。



声高に話すようなものではなく、でも「辛いから話さないどこう」と忌避するものでもない。
ただそこにあることを認めて悲しみ怒り、でも当たり前に笑ってご飯を食べる。
そんな光景に私はすごく、安心するのだ。




最初の多々良先生と小春さんの出会いというこの物語の大きな軸とともに、お芝居冒頭、そっと描かれる、この物語の中で生きてるひとたちのバックボーン。
生活を描くのだ、というブレなさとそこにある色んな感情、思いのこと。それが切り離せないし、切り離す必要がないこと。
それが淡々と暖かく描かれる。その光景に「ああこのお芝居は私が好きなやつだ」と確信した。生きるひとが演じる、演じることでしか表現できない生きることの愛おしさが滑稽さが、私は好きだ。



平山空さんが演じたきえさんがそんな冒頭のシーンを締め括る。
きえさんはそう多くは語らない。多恵子さんに想いを告げる、その時だけ大きく感情を揺らすけどそれだけだ。どんなふうに何があったか。私たちは台詞の端々、自分の中にある知識と照らし合わせながら想像する。
いや、きっと知識がなくても想像しなくても、多恵子さんの受け止める姿、生きてきた、ということで十分だったと思う。




私は今回、このお芝居を見て、「この照明を愛してる2022年部門堂々のランクインです」と思わず呟いたんだけど、
それがこのきえさんがひとり残り、独白するシーンだった。
あのシーン。本当に好きで。
あそこの短い言葉で彼女がどんな思いで、覚悟でこの場所に戻ってきたかが伝わる。
そしてそれを柔らかく照らすまっすぐで透明な優しい光が私はすごく好きだった。優しい光で、きえさんのこれまでは大変だったことは間違い無いんだけど、それをただ「不幸」と切り捨てない。彼女の悲しさも覚悟も否定せず、でも支えるようなその光は、姿を知ることはないきえさんと過ごした「彼」を表してるようにすら思った。




畳屋のあけび、私好きな役者さんがたくさん出ているんですよ。
まじでびっくりするくらい好きな人たちが出ていて、コロナ禍をめちゃくちゃ憎んだ(配信があるかどうか分からず、観に行けない可能性が高かったので)(配信いただいて本当にありがとうございました)
そんな役者さんたちが生活を描くの、本当にすごい。
断片的なシーンがあって、後半からは多々良先生の病気の物語になっていく。なので必然的に(鬼島さんパートは一旦さておくとして)近所の人たちの物語は「断片」になる。




生活と生きること。嘘を使わず、生活と向き合うひと。生活を疎かにしないひと。



そんな人たちが笑ったり怒ったりしながら生きている。
まさこさんのような近所の人がいたら嬉しいし、桜井さんと菅原先生のやりとりがあると楽しい。
十島家のような家族が近くにいたら、幸せだと思う。
寅の設定を読むと、寂しがりやで家族に憧れ、あの家に入り浸っていると書いてあった。
まさこさんや寅、それから桜井さんと菅原先生も。仕事だとかいろんな理由があるだろうけど、何よりあの居心地の良さがそこに集まる理由だと思う。いいな。なんか、そうして集まるひとが、また居心地の良さを作り出すんだな。



深い悲しみを越えるために必要なのは、例えば毎晩一緒にご飯を食べること、誰かの幸せを喜ぶこと、そんなことなのかもしれない。



それでも、そうやって進めない人のこともこの物語は描く。
深い悲しみの中で、生活を守れなくなる。だって、その生活を踏み躙られてしまったら、守りようがないじゃないか、と思う。
踏んでごめんと言われようが踏んだことは間違いでしたと言われようが、踏まれた踏み躙られた事実は変わらない。
その中でその悲しみや怒りを忘れないことも、ある意味では誠実だとも思う。



馬鹿、という言葉に対してのこの作品中の言葉が好きだった。
馬を見て鹿と言うひと。自分の心持ち、思いに嘘をつくひと。何かに流されて、見えているものを偽ること。
でもだったら、鬼島さんだって、馬鹿ではないのだ。
馬鹿でいれたら、いっそ幸せだったんじゃないかとも思う。




白戸先生と菅原先生のやりとりがそういえば好きだった。
多々良先生を中心と描かれる生活の愛おしさ、鬼島さんを中心と描かれる越えられない悲しさや怒り。そのふたつをある意味繋ぐような描写だったと思う。




公害についての記事を実現しようとする白戸先生、それから絹代の情熱を公安が妨げようとするシーン。
菅原先生がそれぞれに見えているもの、正義があること。思いがあること。



どちらかを善悪と描くわけでもなくて、どちらの視点もそっと描いたことに私はほっとした。


生きてるんだよな。みんな。どんな思想も運動も受け入れるべきだ、なんて話を(かなりしんどいことに今は尚更)やっぱり私はできないけど、でも、当たり前にどんな人も好む好まないに関わらず、生活をしてる。笑って泣いて怒って、何かを食べて生きている。

それをああして描いてくれたのは、ある意味でこの「畳屋のあけび」こそ、明日を信じられるひとを描きたいという思いの先にあるお芝居だったからかもしれない。






力を入れて生きたからもう身体の力を抜くことにしたのだ、と笑った一郎さんのことを観終わった後、ずっと考えていた。
私はそんなふうに生きれるだろうか。気が付けば力んでしまうきらいが自分にはあるけれど、あんな風に生きてみたいな、と思った。
だってそれだって、沢山の覚悟だとか強さがないと実現できないことだと思う。



そういえば一郎さんは秋子さんの好きなところの話の際、「秋子がいい奴なんだよ」とあっけらかんと言っていた。私はあのシーンも大好きだった。
馬を鹿と言わない。
馬を何があっても馬だとただただフラットに口にする。それがすごいことだと力まない、彼が本当に好きだ。




そうやって誠実に、生活を大切に生きてきてもある日急に「明日がないのだ」と覚悟をしなければいけないことがある。
そんなことを多々良先生の物語が描く。
畳屋の女房の時は小春さんの記憶を失うことともに「死ぬ気でものを書き飛ばす」ことを描いていたと思う。もちろんそれは、今回も描かれてはいた。原稿を書いている時は少し、意識がハッキリしているということ、原稿原稿、と机に向かう姿。
それは、ちゃんと変わらず描かれていた。
だけどそれ以上に私は「生活を大切な人と送ること、それが失われること、それでも生きていくこと」に大きく軸が置かれていたように思うのだ。


だからこそ、多々良先生と小春さんはじめ、それぞれの家族が描かれ、人と人の関係が描かれ、そこが丁寧だったと思う。
何かを表現すること、も大切なことだけど、今回この作品が描きたかったのはそこがメインじゃなくて、誰かと生きている、その日々の話だったような気がしている。
今それをずっと考えてる。うまく言葉には、まだできないんだけど。



何かを大切にすると、それを失うのが怖くなる。大切にした方が辛いこともある。



それでも、別れを告げられるのは幸いである。
別れを告げる時、痛む気持ちはきっとすごく大切なものだ。その後だってずっと痛いし、唐突にきた別れとどちらがマシか、なんて話がしたいわけじゃない。
でも、なんか、私はあのあそこでふたりが選んだ言葉が別れを告げる言葉だったことが何よりも愛情だったと思う。
し、それがたぶん、二人の気持ちを一番表す言葉に近いそれだったんだと思う。
さよなら、と伝える時、悲しいのも苦しいのも相手が大切だからだ。そんなことをあのお芝居を観て、めちゃくちゃじんじんと痛いような気持ちが出てきて、なんかそれが、ものすごく大事だった。



何かを大事にすることは、怖いことだ。大事にすればするほど、失ういつかを覚悟しなきゃいけない悲劇の可能性は上がる。
それでも、大事にしたいと思う。愛おしいと思う。
そう思って、好きな人をものを大事に生活を疎かにせずに生きていこうと思う。だって、やっぱり深い悲しみを越えるために必要なのは、誰かと一緒に笑って美味しいものを食べる、そういう生活をすることのはずなのだ。



なんとこの舞台、2022年7月29日23:59まで配信が購入・アーカイブが見れます!やったー!