えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

おともだち

友だちとたくさん遊んだ。
この1週間、なんだか、友だちとたくさん遊んだ。そのことをしみじみと噛み締めている。
誕生日の前後だったこともあり、またちょうど「友だちと観たい」がたくさんあって、それで、友だちとたくさん遊んだ。楽しいこと、面白いことと美味しいものを摂取しまくって「あー幸せだなあ」と夜中、布団に寝っ転がっていた。

 


たびたびラジオの話をして恐縮だけど、少し前、オールナイトニッポンJAMを聴いて「分かる〜〜〜」と叫びながら蹲りたくなったことがある。

 

 

誰かと一緒に過ごすよりもYouTubeで昔のCMを見てる方が楽しい。
それを聴いて、あ、分かる、と思ってしまった。思って、あ、そうなのか、私、と思った。ちょうどその前後、無理して誰かと過ごす必要もないし無理して楽しませようとしなくて良いんだよ、と言われたこともあり、全部が合わせて「分かる〜〜〜」と思った。
そうだわ、私は結構、ひとりが好きだ。というか、誰かといると疲れてしまうことが多い。
だから「辛い時に誰か支えてくれるひとがいる?」と言われていつも不思議な気持ちになる。

 

 

前提、いろんなひとに支えられているし苦しいと思う時、なんでだろうと思う時に話を聴いてもらって、あるいは聴かずに過ごしてもらえて、助かったことはたくさんある。
正直、かなり人に恵まれている方だと思う。その私が「一人の方が好きだ」ということはなんというか、傲慢だなあとも思う。
それでも、一人が好きだし、辛い時に誰かに支えてもらうよりも、自分が楽しい時に誰かと一緒にいたいと思う。
寂しいと思うことがあるとすれば、辛い時に誰かが隣にいないことじゃなく、美味しいものや楽しいことを「これ、すげー良くない?」と言えないことだと思う。もちろん、それだって共感して欲しい、シェアしたい、だけでもないわけだけど。

 

 


一人が好きなんじゃなくて、誰かと過ごすのが下手くそなのかもしれない。

 

 

 

ところでそれはそれとして友だちとこの1週間たくさん遊んだ。たくさんたくさん遊んで、遊んだ帰り、ぼんやりと反芻して、それは1日のこともだし数日のこと、数年のことを考えながら「あ、もしかしたら私は誰かと遊ぶとき、一緒にいる時、申し訳ない、と思ってるのかも」と気付いた。
申し訳ない、楽しいかな、やじゃないかな疲れてないかな、みたいなことをずっと考えて、申し訳ないから楽しいと思って欲しいとぐるぐるしてしまい、結果、疲れるなあとなるのだ。
例えば、解散時間が分かってない約束が苦手だ。不意打ちでの延長にもわりと心臓がドキドキする。それもこれも、そういう「申し訳ない」への下準備が出来ないからかもしれない。
それで楽しませられているかどうかは別として、たぶん、そんな自意識のせいで、私は誰かとうまく過ごすことが下手くそなのだ。

 

 

 

ただなんだか昨日、そうか、そんなこともないのか、と思い立った。相手は楽しいと思ってくれているかもしれない。また遊びたいな、と思ってくれているかもしれない。
そんなことが私の頭からはすっぽりと抜けていた。どうにも、楽しいが下手くそすぎるな、と自分でも驚く。
以前もそういえば「みんなはそんなこと気にせず遊びに来て欲しいと思ってると思うけどね」と言われたことがある。有難いし嬉しかったけど「みんな」かは分からないな、と思った。し、今でも正直思ってる。集団遊びが下手くそなわけである。
その「他人」を気にせず、楽しく過ごせるひとこそ、きっと、「一緒にいて楽しいひと」なのだろうなあと文を書いていて反省もしてきた。
なのだけど、やっぱり明日からも変わらず「みんな」そう思ってるよ、は信じられる自信はないけど、少なくとも大切な誰かと遊ぶことにはもう少し自信を持ちたい。

 

 

 

昨日、ライブを観た。それを通して思ったことはもう少しじっくりと自分の中で反芻して言葉にしたい。
ただ一つだけ。楽しくて嬉しくて、それを友だちと「楽しいね」「最高だね」と言い合って大事なものを大事にしたいなあと思っている、そのことはここでちゃんと残しておきたい。
大事なものを大事にした方がいいな。ステージ上の輝きと好きなひとたちの笑顔とか、そういうものを見ながらずっと思っている。大事なものを大事にしたい。
そう思うと申し訳ない、なんて思ってる暇は、ないと思うのだ。