えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

週末にはライブがある、来週は新曲がでる


※この文章には自死を思わせる表現が一部出てきます。
ご自身の状況に合わせ、少しでも不安がある方は閲覧を控えていただきますようお願いします。









自分のことを大いに棚上げしながらなんだけど、私は身近なひとが途方に暮れているのを見ると、更に途方に暮れてしまう。なんなら途方に暮れてしまう、というのはマイルドに直した言い方で、気持ちにより近い言葉を選ぶのだとしたらブチギレそうになってしまう。
誰がそんな顔をさせたんだと怒ってしまい、その人の悲しさや怒りを勝手に横取ってしまうのだと気付いたのが、ほんの少し前。だから、それ以来はなるべく、努めて、話を聴く、に脳の動きを向けようとする(とはいえ残念ながら正直、勝率はそんなに高くない、ごめんね)



そんなわけで、最近も身近な、そして結構自分の生活のなかの大切なひとがかなしんでいて、咄嗟にブチギレそうになりながらもうんうん、と話を聴いていた。





なんでだろうな。




ただただ、生きてるだけでやってくる理不尽さややるせなさに、仕事や家族、友だちや恋人がうっかり輪郭を持たせてしまった時にそんな化け物みたいなものからは目を逸らさせて、「大丈夫だよ」って言えたらいいのに。そんなどうしようもないことを思いながら何度も、私にはそのスキルがないんだよなあ、と思う。





そうして、そういう気持ちを一瞬でも薄める本や音楽、漫画、芝居はすごいなあと現実逃避してしまう。






突然だけど、35歳で死ぬ予定だった。
新卒でボコボコにメンタルと身体をやり、なんなら実は入社前から気持ちが折れつつあったその時の私はずっと考えていた。
正直、あの頃の私が生きていたのは当時気にかけてくれた友だちと、そして何より手元に毎月のようにあった芝居のチケットのおかげだ。
深夜バスで東京に行くたびに、帰り窓ガラスに頭を押し付けながら大阪着くまでに事故らねえかな、とよぎったのは片手で足りないし、その度に他の人に迷惑かけるのは良くねえよなあと思ったりもした。
そして、その都度、「つーか、来月はあの人の舞台がある」「あの劇団を見に行くんだった」と思い直していた。
そうやって細々となんとか這うように生きながらも、いやでも無理だなーと日々思う。
無理だな、死ぬしかないな。
そう思う度に自分の信念が自ら進んで死ぬことは許さないと呪詛を吐く。もとより、自分から死なれ残された人の姿を見てきた私は、結構早々に「自分で終わらせる」の選択肢を捨てた。でもどうしようもなく投げ出したい。自分の中で真逆の気持ちがじたばたと暴れ回って、ただでさえ疲れ切った身体がさらに疲労する。





そんな私が「もう少し生きてみよう」と思ったきっかけの役者さんが35歳だった(当時)
死ぬわけにもいかない、でも今すぐ消えたくて仕方ない。そんな自分には、でかい収穫だった。
こんなに美しい瞬間があるのか、と思い、この恩を返さずに終わるのは、あまりにも格好が悪いと思った。
なら、35歳まで。精一杯生きよう。自分がしてもらったように下の世代に返そう。懸命に生きてあの頃の自分のような人間を救おう。





だから私は、毎日を手加減なく生きることにした。仕事もプライベートも人付き合いも、全部全部本気でやった。手加減も程々もなかった。
35歳で死ぬつもりだからだ。
ちゃんと死ぬためにも体力を、身体を、心を使い尽くそうと思っていた。





そんな当時の自分に「そんな生活をしたら早死にするよ」という心配は本当に申し訳ないけど逆効果だったし頓珍漢だった。死にたくて生きてる。願ったのは数年後の終わりだったしその時に後悔しないようにやり切ることだった。中途半端にして、助かることのないように。
あーやりきった。そう言って少し早めにこの世からおさらば出来ることが自分にとって希望だった。早々に自分で向こう側に行った友人に、なんとかなんねえもんかね、と馬鹿みたいな飲み方をするたびに帰り道、話しかけていた。こっちであってんのかね。






気がつけば、そんなことを、最近はしなくなっていた。






生きてることを、苦しいな、と思いながら何かに猛烈に怒ったり悲しんだりしながら、人生だとかいうものと直接やり合ってる自分の姿は滑稽だと思う。
もう少し斜めに、真正面から以外で、なんだか、やりようがあるんじゃないか。
ばかまじめにやり過ぎだと言われればその通りだ。
だけど、だからばかまじめにやってる表現を私は求めてしまうんだと思う。芝居も映画も音楽も文章も、不器用にもがいてスカしたりすることもできず、ただただ、生きて生きて悪態をついてるひとが、それでも時々、水面に顔を出して大きく息をするような人が好きだ。
そういう人が生きて、笑っていることが知れること。ガタガタと軋む身体を引き摺りながら生きていることを知ってほっとする。





そういう表現に触れて、数年。死ぬために生きるのは一旦やめておくことにした。だってどうせ、人は死ぬ。
生きることそのものがちゃんとしんどいんだからそれをいちいち取り上げている暇はないだろう。
いまだに、つい、足を引っ張られてそちら側をじっと見つめてしまうことは、あるけれど。






一緒に過ごしているあの人が、笑う瞬間が多ければ良い。楽しいことを面白いを見せてくれたあの人が、なるたけ、健やかだったらいい。
そういうポジティブで穏やかな自分をかきあつめてなんとか、日々の生活を送ってる。楽しいや面白いをなんとか見つめられないかと試行錯誤の毎日だ。




ところで、今日、星野源の新曲リリース日が発表された。
新曲があることは知っていたのになんでか跳ねたいくらいに嬉しい。
今週末は気になっていたラッパーが関西でライブをしてくれるからそれもわくわくしながら予定の書かれたカレンダーを見つめている。




いつだって楽しいものや面白いものはある。だけど、こうして身近な日にちになっているとより心強い。
それは、少し先の約束が出来るからかもしれない。息苦しくても、「ここでなら息ができる」という日が明確にイメージができることは、結構大事だ。指折り何かを楽しみにできることは、安心する。
だから、大丈夫だ。