えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

灯台に照らされた道

どうするんだろう、と思っていた。
まだお知らせがあります、という煽りが効きすぎていたからだ。
正直、ファンはもうすでに喜んじゃってますよ、と製作陣に心の中で呟いていた。だってあの星野源若林正恭の対談が、しかも6本、ほぼフリーで聴けるのだ。それを企画したのが佐久間宣行。現オールナイトニッポンのリスナーであれば、垂涎ものだろう。
ゲストはいない、とは早くから公表していたからこの後くるのは誰か豪華なゲストなんてものじゃないだろう。いや、なんならもし仮にゲストがいないことが公表されておらず、この「まだお知らせがあります!」と言われていやいや、と思っていたかもしれない。いやいや、待ってくださいよ、舐めてもらったら困る。なんなら豪華なゲストなんていらないし、二人のお喋りをじっくり聴きたいとこちらは思ってるんだよ。まさか、ゲストなんて呼びませんよね?




ところが、というか、もちろん、というか、そんな我々の思いは見透かされたように早々に「ゲストはいない」と公表され、明日18時、最後の全貌が明かされます、と言われた。そこから数時間の私の気持ちを想像して欲しい。





これ以上なんてないけどな、この全貌ってあとは何が出るんだ?
そうことあるごとに首を傾げ、そもそもそれぞれ、ではなく「この二人」を好きになったきっかけになった回の象徴であるPOP VIRUSを口ずさみながら、今日を過ごす。





そうしてあんなに楽しみにしていたのに忘れてうっかり時間に開いたTwitterでその知らせを見て、飛び上がりそうになった。なんなら仕事中の息抜きでそのツイートを読んだのに、声をあげそうになる。
テーマソング、それから各話で流れる音楽を、星野源さんが書き下ろす。
ちょうど先日の「星野源オールナイトニッポン」で「俺、今年の夏、めちゃくちゃ頑張ってる」というわけである。
この特別な番組で6曲、さらに来週解禁される新曲。この夏の間だけで7曲でる。一体、源さんはどんな時間の過ごし方をしてるんだろう。




灯台を意味する「LIGHT HOUSE」その情報が解禁される前から見る前だというのに特別感が増していく。そもそも、この二人が話をするという時点で私にとっては「灯台」だった。




この間の年末年始。何度もしてしまっている話だけど、ごくごく個人的な理由で塞ぎ込み、どうしようもなくなっていた頃、逃げ込むように聴いていたのが、ラジオでの二人の会話だった。
この会話を聴いている間は大丈夫。本気で、そう思った。





ふと、知らせを噛み締めながらラジオを振り返って思う。少なくとも私が何度も何度も聞き返しているパートに何か「学ぶもの」なんてものはない気がする。ましてや、「私」を励ます言葉だってない。ただただ、二人が喋っているだけだ。
だけど、放送があってから何度も聞き返し、私はその会話を「灯台」にしてきた。こっちであってる、と確認する手立てにしてきた。




今更、あの二人を見ていると自分と似ている気がするなんていうつもりはない。言えるわけがない。いっしょ、だなんてどの口が裂けても言えない。
それは「足りない僕らで結託しようなんて思ってない」と言われたからではもちろんない。知れば知るほど、圧倒的に好きになってしまう彼らが自分と似てる、なんて思えやしないからだ。




そう思ってる。知れば知るほど。ラジオを聴き続けていると。エッセイを読んで、あるいは表現に触れて。ましてや、二人ほどになるとそこからの二次的に生まれた……例えば、直近ならだが、情熱はあるのような……これまた素晴らしい作品もある。そんな彼らと今の自分を比べても似ている、なんて思えない。
だから、やっぱり、当たり前だけど、彼らは違う、彼らの道を辿ったとしても、別に自分の進むべき道がわかるわけじゃない。





そう思ってるのになあ。
なんで、彼らの悩みは、言葉はこんなに近く感じるんだろう。それが直接的な解決をもってくることなんてないと知ってるし、持ってこなくて良いと思ってる。だと言うのに、なんでか、ほっとする。



その上、そんな時間が増すだけではなくそこには私の好きな源さんの音楽もあるのだ。ゲストはない、なんて言ってたけどスペシャルゲスト過ぎる。






ラジオで話した二人が、歌詞の中、わかる、と思ったこと。「俺も思ってた」と思ったこと。
そのエピソードを、一緒に思い出す。
細かくいけば当然ながら違う。だけど、音楽を通してお笑いを通して、言葉を通して「ああわかる」という錯覚がやっぱり、あるのだ。
嬉しいな、やっぱり何回考えても、たまらなく嬉しい。



そこに何度も支えてくれた源さんの音楽がある。
その音楽にまた出会えるのだ。




人生を変える時間になる。そう、佐久間さんが言う。まだ何も見ていないのに、そんな気がしている。




大いなる勘違いだと思うけど、それでもやっぱり自分の進んだ先に彼らはいなくてもこの道を照らしている灯りは、確かに彼らが生み出してくれているのだ、とは思ってたい。それくらいは、錯覚したって、許されるんじゃないか。
少なくとも、この心の中にわいた安心感はもうそれを、確信に変えても良いと言い切っている。