えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

So Sad So Happy

はあーやめたい。
何をってもう、ともかく、あげたらキリがない。クソみたいなことしかない。
自分だけスルーされた相槌とか
いつまで経ってもお前は仕方ないねと苦笑された顔とか
お前といてもつまんないって言われたこととか
あーやめたい。
自分も許せず、かと言って改善するにも世界だって負けず劣らずクソで全部嫌になるしもうそういうこと煮詰めてるととりあえず「はあーやめたい」になる。何をやめりゃいいんだろう。人生か。

 

 

 

そんなどうしようもない気持ちの中で過ごした数日。気力も体力もなく、諦めかけた配信をアーカイブ最終日に駆け込むように観た。

 

 

 

So Sad So Happy。サマソニで源さんが作り上げた最高のステージ、その1日の様子をダイジェストで観ることが出来て本当に嬉しい。

ステージの、というべきか、企画の、というべきか、ともかく私はこの「So Sad So Happy」という言葉が好きだ。拙い英語の知識で受け止めているからもしかしたらニュアンスは違うのかもしれない。

だけど、彼の音楽を好きになるきっかけになった「Same Thing」の歌詞を聴いて目の前が楽になった、あの時の感覚をいつも思い出すのだ。

 

I've got something to say
(I've got something to say)
To everybody, fuck you
It's been on my mind
You know I meant it with love

 

 

 

 

そういえば、源さんの音楽に出会ってから「踊りながら音楽を聴く」の楽しさが自分の中に根付いたような気がする。

まだ聴いたことのないアーティストたち、源さんを通して出会っていたアーティストたち。そのどのひとも最高でクールで気が付けば踊りながら聴いていた。
特にカミーロはもう、もうもうもう、最高で、踊りながら聴き、一旦一時停止してApple Musicですかさず曲をダウンロードした。ありがとうサブスク。ダイレクトに曲と出逢いにいけるこの環境と技術に感謝しかない。

 

 

また、誰もが楽しそうで音楽を愛していて、その場で音楽とともに踊ることが愛おしくて最高で、そうこうしてるうちにこの数日止まらなかった頭の中の「はあーやめたい」が聴こえなくなった。

 

音楽を続けてきたひと、音楽を愛し続けてきたひと。そうして、その愛から今日、あの日、音楽を始めるひと。そんなひとたちが作り上げるステージ、そしてそれを本当に嬉しそうに「すごいんだよ!」と話す源さんの姿は「やめたい」と放り出すのは惜しいと教えてくれる。

 

 

 

 

その中で「星野源」のステージが始まる一発目が「地獄でなぜ悪い」で唸ってしまう。あのイントロが流れる度に心臓が跳ねる。バクバクする。
何度も、色んなステージで観ているのに聴いてるのにそれでも毎度新鮮に、出逢い直せるこの曲が好きだ。
そして星野源を好きになるかは分からないけどこの曲は好きだとリピートしていたあの日から繋がるように「星野源」を好きになった今でも何度も何度も「もっと好き」になれることが嬉しい。画面に食い入るように観た。

 

 

 

「同じ地獄で待つ」と歌う星野源が一瞬、力を抜いたように見えた。力強さすら、心強さすら覚えた次の瞬間、そっと力を抜く。その顔が美しく、なんなら少し恐ろしくすらあって、私は、その顔をずっと覚えておきたいと思った。

 

 

 


地獄でなぜ悪い」を聴く度に、大丈夫だと思う。それは「何一つ大丈夫じゃない」と地続きだ。クソッタレで、どうしようもなくて許せなくて逃げ出したい。だけど、そんなこと何一つ解決せず、それでも「作り物だ世界は」と歌い上げる、「作り物で悪いか」と歌い上げる姿にそうだよな、と思う。

 

 

 


ずっと考えていた。日々の生活に負けそうになる度に聴く音楽たち。逃げ込む物語。遠い場所の誰かのくだらない話。
そういうものになんとか助けられて生きていることを「恥ずかしい」と言われること。
「大人になれよ」と嗜められること。
そういう削ってくる現実に、私は踊りながら中指を立てたい。
さらにいえば、別にそれは、それを「幸せ」と呼ぶだけのことじゃないのだ。正しく地獄だ。
その「作り物」を作り上げること、好きでいることにだって地獄はある。
だけど、だからなんだ。同じ地獄に、いるじゃないか。

 

 

 


「おんなじ動きなんてしなくて良い!好きに踊って!
「もっと自分の踊りで踊って!」

 

 

 

そう声を上げる源さんに笑ってしまった。幸せで最高でああそうだよな、と思う。
おんなじじゃなくて良いし、おんなじになんて、なるわけもない。各々がばらばらで一つになんて到底なれなくてならなくて、それで良いのだ。

 

 

 

私にとっての「SUN」はいつもいなくなってしまった大切な人を思い出す曲だ。

 

悲しいことが起きるたび弾けるスネア。

 

身近なんかじゃなく、だけど、ずっと特別な場所で距離でそのスネアを鳴らしてくれたひとのことをいつも思う。
神様と表現すれば、大きくずれる。そんなんじゃないし、そんなものだと思うつもりもない。だけど、いつも、太陽のように照らしてくれたひとのこと。
祈り届くなら安らかな場所にいてよ、にいつも私は大きく頷く。頷きながら、源さんが合わせてくれる手が、嬉しいと思う。

 

 

 

源さんの音楽って不思議だ。感情が飲み込まれるし、何か濃くてあたたかなものに包まれる感覚がある。
音楽の上手い下手、良し悪しはわからない。だけど、私が源さんの音楽を聴く度嬉しくなる理由は、なんとなく分かる気がする。

 

 

LIGHTHOUSEで音楽や芝居を通してしか、コミュニケーションが取れなかったからこそ、それを作り出せないと思うと世界から切断されるような怖さがあると語っていたことを思い出す。

 

 

だからかもしれない。
コミュニケーションツールだった音楽。伝えること、音楽でなら伝わること。
源さんの音楽はいつも「伝われ!」という念のようなものが詰まっている気がする。
だからこそ、音源として聴くことはもちろん、こうして「ライブ」の場に触れると曲そのものにこもっていたものと源さんがその時々に込めたものがすごい熱量になるから、毎度、圧倒されるのだ。

 

 

 

いつだかのラジオで弾き語りライブの時は具合が悪くなっちゃう観客の人がいると言っていた。分かる気がする。ライブに足を運んでいても思うけど純度の高い感情や想いを受け止めることは、受け取る側も結構パワーがいる。
それがもちろん、心地よくもあるんだけど。

 

 

喜劇、くだらないの中にとバラードを聴きながらぼんやり泣いて、そんなことを思った。
だけど私は、それが好きだ。
そういうパワーを使うことが、矛盾するけど日常で削られた何かを埋めることに繋がる。そんな気がする。
伝われ!という念はとんでもなく強力ではあるけど、その「伝われ!」があることが嬉しい。そしてそれが、こんなに素敵な形であることが、本当に本当に嬉しい。

 

 

そうして最後、Week Endが流れる。間奏の合間に「言い忘れてたけど最後の曲です!」と叫ばれて音楽にノりながら「えー!」と悲鳴を上げる会場が最高だった。
確信犯的過ぎるだろ、と思うし、なんというか、世界で一番最高に幸せな「最後の曲です!」なんじゃないかと思った。
そして何より、歌詞を聞きながら踊りながら、いつの間にか消えきった「はあーやめたい」と代わりに浮かんできた楽しいの気持ちを抱き締めたくなった。
その後の2曲ももちろん、もちろん最高だったのだけど。
何より私はこの曲を週末の初めに、聞けて良かったと心底思うのだ。

 

 


電波を世間を未来を踊ろう
皆さんも、どうぞ良き週末を。