えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

Cube

本物のチャカを突きつけてきた。
そう思った。
あちこちオードリーに出演された際、「俺は諦めませんよ」と若林さんに言ったエピソードを交えながらだったと思うけど、源さんの言った"本物のチャカ"という言葉が心に残っていた。時々思い出すその言葉を、Cubeを聴いた時真っ先に思い出した。

生きていくうえで強く感じていること。


そんなことが反映されているというCubeという曲は、アップテンポで賑やかなメロディラインで進む。
ふとそれで地獄でなぜ悪いを思い出した。
軽快なメロディとたくさんの楽器で楽しい音楽を奏でながら、歌詞はゴリゴリに地獄を歌う。
私は、星野源のそんなところが好きだ。地獄や苦しさ、怒りをともかく楽しそうに歌う。奏でる。楽しそうでもそこにある苦しみは嘘じゃない。
Cubeも、楽しそうなメロディで淡々と怒りや絶望を歌う。
そしてその感覚が、どんどん研ぎ澄まされてるような気がする。それはある意味、本物のチャカ、だと思った。



何より、絶望させてくれないのだ。

"未来 閉ざした
もう終わりさ すべてに希望が見えない"

そうショートverの予告で流れていた歌詞からこれはやべえ気配がするぞ、と思っていたわけですが
フルで聴いて容赦のなさにしょっぱな笑ってしまった。清々しくて笑ってしまった。すごくない?
ボコボコにしてるのに曲は楽しい、曲は楽しいのにハッキリと希望はない、と言う。
その上、その上ですよ、絶望させてくれないのだ。
絶望させてくれないなら希望を教えてくれるのだろうか、と思えばそうでもなく「ただ生きていくだけだ」と突き放す。


星野源〜〜〜!!!!!




星野源は何を憎んでるんだろう。
もちろん、歌詞イコール彼の本心だとするのは違うと思うし、だからこの歌詞そのものが彼の思想そのものだとは思わない。
ただ、『よみがえる変態』の文庫化に際しての後書きの中で「今、僕の目の前には、いつも絶望があります。」と書いた源さんのことを、この曲を聴いて思い出した。ああ、絶望がいつも目の前にある姿とそれこそ「憎しみはやはりここにある」と歌う姿が重なった。



そうして考えながら、私だってきっと、何かにずっと怒ってがっかりして絶望しながら生きているような気がする。それは、ちゃちな共感というよりかは、みんなそうなんだろうな、と肌に感じるという、話なんだけど。



「死にたい」と思うことすら、破滅願望すら失った先にあるもの。
生きるしかない、そこでじゃあ楽しんでやると遊び出すのは、もう、なんだか、最高じゃないか。最高にイカれてる。


意味なんてない、希望はない。でもそこで、くつろいでやる、踊ってやる、口づけてやる。
それは運命のようなものへなのか、それとも世界へなのかは分からないけれど、ハッキリとした宣戦布告で中指を立てる行為で痛快で、とんでもない。
かと言ってまあ、もちろん、私たちに寄り添ってくれるわけでもない。じゃあ私はどうする?とその痛快な姿に問い掛けられてるような、いや問い掛けられてるなんて柔らかな言葉じゃ間に合わない。なんかこう、煽られてる。煽られてるって言葉は良くないな。でも、なんか、嬉しいんだ。それが。お前はどうする?って試されてる気がする。



CUBEは、極限の状況に閉じ込められた人たちの話らしい。でもたしかに、私たちだって「生きる」という中に、閉じ込められてるような気がする。ここまでいったら大丈夫なんて救いも出口も光もない。
死ぬことだけが決まったこの一生の中は、ある意味、そのCUBEの中と一緒じゃないか。
そして、そんな中、源さんがたびたび言う、面白いということが生きててよかったと思う、もう少し生きてみようと思える、そんな道標になるという言葉が好きだ、と思うことを思い出す。


どうにもならないことが多いけど、呪うことをしないのはそれに飽きたからだ。そうしていても人生とかいうものは変わってくれないし、だとしたら、自分の人生を紡ぎ直して、面白がって、ひとつでも多い、面白いを見つけたい。


そんなことを、繰り返しこの曲を聴きながら思う。
わりとストレートな怒りや絶望は今まで、彼がしてこなかったような表現な気もしている。もちろん、結構エグいことを言う曲は今までもあったんだけど、本当に、なんだろう、ストレートだな、と思った。そして、だけど、楽しくて面白いな、と。それは生きてきたから、できることだ。
それがなんだか、嬉しくておっしゃ、じゃあ私もやってやろと思う。


過去を紡ぎなおせ。
なんとなく身を任せてガッカリだということももっともらしい幸福や幸せに微睡むことでもなく、自分で、紡いで編んで、その先、出口へ向かえ。
背中を押してくれる、というわけではないけど、なんか、こんなヤバい楽しい曲を聴いてると負けてらんねー、と思うのだ。