えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎を三回観るとは思わなかった。
一回目観た時は、直後、いい映画だったけど案外ケロッとしてるな、と思っていた。
ああでもこの映画が愛されるのは分かる、と思い、考えてラジオごっこでも喋り、そうしてるうちにじわじわ、生活の中、いわゆるこのゲ謎について考える時間が増えていく。

 

 

仕事が繁忙期なせいもあるだろう。人と接する時間が長ければ長いほど、嫌気がさす。放り出したくなる。その度にあの村のことを思い出した。ゲゲ郎と、水木のことを思い出す。
そうしていつの間にか、心の中で、水木に語りかけるようになってしまった。なあ、水木。私はまだ、諦めずにいれるだろうか。諦めちゃいけないことは分かる。分かるのだけどどうしようもなく虚しい。だけど、まだ、ちゃんとやれるだろうか。

 


これはそうして冬の限界の社会人生活の中、水木に語りかけ、何度も問い直しながら気が付けば、どうしても彼らの姿をもう一度観たくて映画館に足を運んだ私の脳内整理である。

 

 

水木という男に感情移入をしてしまったのは、そりゃそう、である。
立身出世を求め、しかもその根幹にあるのがが自分の「地べたを這いつくばった経験」に基づいている。弱い人が、持たざる人が、奪われ搾取され、負けた人が「そこから抜け出す」ために力を求めること。その感覚は、私だってよく知ってる気がした。踏まれた時の感覚はなかなか抜けるものではない。
だからこそ、力がないといけないと思い、その力を求めて自分の心身を削りながら進む。
そんな「72時間働けますか?」の合言葉を唱えていた「モーレツ社員」は今、言い換えられ、「限界社会人」と言われている気がする。

 

 

いや、もしかしたら今もイキイキと働き、毎日を過ごす人も、それを表す言葉もあるのかもしれない。だけど、少なくとも私には自分の心身を削り、仕事に邁進することを表す言葉としては圧倒的に「限界社会人」がしっくりきてしまうのだ。
それは、「社会はどれだけ何をしても変わらない」と思っているからじゃないか。
そんなことを水木に語りかけながら働いて思ってしまった。

 

だけど、そうじゃないか。

 


かといって「限界」と知っていても、立ち止まるわけにもいかない。だって止まれば、踏まれる、弱い側にいってしまえば、また地べたを這いつくばることになるんだから。
だけどもう、私たちは……劇中彼らが「良い時代が来る」と語った時代にいる私たちは、モーレツに働いても意味がないことを知ってる。モーレツに、自分の心身を削ろうが、そこでやがて訪れるのは悲しい結末だけなのだ。
果たしてそれはどっちが幸せなのか、と思いながら、それでも、やっぱり彼のことを憧れに近い気持ちで、思う。最後まで、なんだかんだ真っ直ぐだった彼のことを、私は尊敬しているのだと思う。

 


さて、水木について好きだ、と思う上で沙代ちゃんのことを考えないわけにはいかないと思う。彼女にした彼の行為は残酷だったのか、とずっと思ってる。

 

沙代の水木への好意は、本心からというよりも夢を見るような気持ちでたまたまその先にいたのが水木だったというだけのことだと思ってしまっているからかもしれない。

 

 

だけど何より、惚れる価値のない人間に惚れることは絶望だけど、沙代ちゃんはきっと、そうではなかったし、そう思うと彼女の人生をただ、悲劇とは呼びたくない。彼女は彼女の強さで、自分の人生を逆転勝利させたんじゃないか。
それは、彼女の復讐が意味のあるものだったからではなく、その恨みも含めて、きっと、彼は良い男で、彼女の気持ちをきちんと受け止めただろうから。彼女の水木への復讐は完遂されたし、それはきっと(歪ではあるけれど)愛と呼んでもいいような、そんな気がする。
ああでも、それも結構、残酷で身勝手な物言いなのかな。

 

 

今回のゲゲゲの謎では、「総員玉砕せよ!」からの引用など、水木しげる自身の戦争体験からのエピソードも入っている。
そこで無意味にただ「死ね」と命じられること、そしてそれを命じた人間たちはあの地獄のような戦後も富を増やしていたことを、ずっと考えている。
更に言えば、乙米が、時貞が、言った「この国を良くするため」という大義名分や、そのために死ぬことを誉だと言う、自分たちは這いつくばりもしないのに、そんなことを言う彼らのことを考える。
何より、それがただ「聞こえのいい言葉で騙すため」ではなく、いや、もちろんその要素もあるんだろうけど、本気で「それが正しい」と思っていることに呆然とする。

 


ひとは、本当に無邪気にひとを搾取する。傷付け、利用する。
だけどそれは何も「力を持つもの」の特権ではなく、いつだって自分もそういうことをしてしまう危うさはあるのだ、と水木の沙代ちゃんへの後悔に思う。

 

きっと本気でそれが良くなることだと思っていた。自分の正しさだけを信じて、それをするために人に対してどれだけでも残酷になれる。

 

 


あの村は、元々、幽霊族を祀っていたんじゃないか、という考察がある。
幽霊族が穴倉に隠れるように住んでいたこと、乙米の「穴倉にいた〜」という台詞や、村人の台詞を思うと、あそこは幽霊族が神様としていた村だ、というのはとてもしっくりくる。


じゃあ、彼らは、その「神様」を堕として虐げて、利益を得たのか。それを、良しとしてしまったのか、と思うとものすごく辛い気持ちになる。
あの桜の木の下、何人もの幽霊族が死んでいたこと。そしてその恨みをまた同族を、人間を苦しめるために利用したこと。そんな趣味の悪いリサイクルに嫌気がさす。
それは、本当に尊厳を奪っているし、そうすることで自分たちだって、大切なことを失ってるはずなのに。

 

 

それすら、金銭的な社会的豊かさの中では霞んで分からなくなるのだ、ということをずっとずっと考えている。

 

 


水木が、あの村に行ったことで墓場の鬼太郎ルートからゲ謎ルートに切り替わったのだ、というエピソードが好きだ。
大きな流れは変わらない。夫婦は死んでしまうし、水木は鬼太郎を拾い、育てる。
だけど、そこにあるそれぞれの想いは少しずつ変わっていく。
奥さんが、あの桜の木の下、悔しそうに涙を流すシーンが、何度見ても心に迫る。ゲゲ郎の人間を憎む気持ちを溶かしてくれるほどの愛を人間に向けてくれた彼女にあの顔をさせてしまったことが、何度も苦しい。

 

 


許せるわけがないというか、愛せないと思う。
水木の台詞じゃないが、人間のことを到底許せないと人間ながらに思うし、ツケを払えよ、と思う。
そういった意味で、墓場の鬼太郎の病院での彼女の行動は「それはそう」だし、そこに悪意にも似た感情があるとしても仕方ないことだと思う。
思いながらも、映画を観る前、墓場の鬼太郎を予習として見た時点では「種族の違いからの無邪気な行動」なんじゃないか、と思っていた人間としては、あれを村に水木が現れなかった場合のifルートである、と思うとかなり辛い。あそこに彼女が元々は人間を愛してくれていたこと、なのにその彼女があの地獄のような時間の中で、どうなるか分かった上で人間に血を与えたことが、本当に苦しい。
仕方ない、あの経験を経た彼女が人間にそういう行動をとるのはあたりまえだ、と思う。思うのに、苦しい。

 

 

時貞は、彼女の心身を削っただけではなく、彼女にとって大切な「愛」の感情までもを奪うのだ。それは、どれだけ残酷なことだろう。
そして、もし水木があの村に現れて、ああして足掻き続けたことでその愛を守れるのだ、と思うと私は愛おしくてたまらなくなるのだ。

 


また、だからこそ第六期の鬼太郎は人のことを「どうしようもない」と思いながらも、呆れながらも、諦めずに一緒に共生する道、一緒に生きていく道を探してくれるのだ、と思うと、愛が続いていく物語なんだ、と実感する。

 


時ちゃんに語ったゲゲ郎の、目玉の親父の言うとおりだ。
良くなるはず、良くしたいと思ってるはずなのに。まだ人間は心が貧しくて、他人を蹴落とそうとする。自分の幸福にしがみついて、何も見ようとしない。
だけど、だからと言って、諦めるわけには、いかないのだ。

 

許せないと思う中で、どうしようもない絶望の中で、彼らが諦めなかったように。
そしてその姿に、存在に愛を見出して、相手の幸せな未来を願って行動し続けたように。

 

 

 

たぶん、私は、何度も映画を観ることで彼らに言って欲しかったのだ。

 

まだ大丈夫、まだ諦める時じゃない。ほんの少しでもいい、愛を信じられる。良い未来の方向に足を進められる。
だけど本当は分かっている。それをもう、言ってもらう立場じゃないのだ。私が、私自身の足で、腕で、確かに次の良い未来を手渡せるように足掻くべきなのだ、それがたとえ、どれだけ無謀に見えたとしても。