えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

R老人の終末の御予定

例えば何日も何ヶ月も経って、あああの人が言いたかったことはこういうことだったのか、と思い至ったり、唐突に昔のことを思い出してその時間の愛おしさに喉が詰まるような気持ちになることがある。
R老人の終末の御予定への気持ちが何かに似てる、と考えていたんだけど、たぶん、それだ。
じわじわと自分の中にある気持ちとか、きっとそういうのが時間と一緒にどんどん、色付いていくんだ。

 


逆説的な人間らしさ、というパンフレットの吹原さんの言葉を思い出す。
ほとんど人間が出てこなかった今回のお芝居を観終えて、なのに人が愛おしいと思った。
それは動物としての人間というより、たぶん、心の話なんだと思う。

 

 


これは、地球上で初めて結婚したロボット夫婦の物語。

 


そもそも、原案となったふたりは永遠にという作品が大好きだ。
余命を悟った天才的科学者が妻を看取るため自分とそっくりなAIを作るお話。しかし、実は同じく天才科学者だった妻も同じように愛する人を看取る為、自分そっくりなAIをもう随分前に開発していたのだ、という何とも切なく優しい話。10分くらいのそのお芝居を私はPMC野郎さんに出逢って間もない頃、YouTubeで知り何度も何度も再生した。
大きな何かが起こるわけではないけど、夫婦それぞれの気持ちが優しくそしてその秘密を唯一知るふたりの友人の台詞が優しくて悲しくて。


吹原さんの作品は奇抜な設定やキャラクターが出てくるけど、その根っこにいつも素朴な気持ちがあって、その素朴さにいつもいつも私はノックアウトされる。


今回、それが元になりもう一つの軸としてエレキギターと電子ポットの恋が描かれる。本来仇同士のマフィアの子どもたちである彼らの恋。

 


トリッキーな被り物の彼らの姿はだけど、淡々と人間のそのままの姿みたいだ。
家柄を気にしたり、なんだか分からないということを理解しながら殺しあったり。
それは、ロボットのアダムとイブであるふたりは永遠に、の彼らがひとつひとつ「人間」のそれを習得していったからだ。


恋をして、誰かを思い、人を傷付け、自ら命を絶つ。

 

 


私は、終わった直後、悲しくて仕方なかった。
ポットさんを助ける何かがあると思ったんだ。
おじいさんの記憶の先にポットさんを助ける何かがあって、それはもしかしたらふたつのマフィアの争いすらなくしてくれないかって私はどこかで願ってた。だから、呆気なく死んでしまったおじいさんにも、それと同じように死んでしまうグレコにも、呆然とした。うそでしょ、と思った。
人間に近付いてしまったばっかりにフリードリヒの言う通り本当は滅ぼし合わない理想的な生命体だったはずの彼らが、言葉を選ばないなら、どうしようもなくなってしまったように思えて、かなしかった。どうしようもなく、ってのは、言葉が悪過ぎるな。
ただただ、人間が悲しいと思った。


R老人、横見さんの演じる花嫁姿のケイコが人間を殺すシーンが恐ろしくて悲しくて、そして美しかった。


鍛え抜かれてる横見さんだからこその静かなんだけど物凄いパワー(あのロボットの馬力感!ミシミシって音を聞いた気がした!)での殺戮にはぞっとしたし、表情は最小限なんだけど深い悲しみと怒りが見えて。。あのシーン、心臓が震えた。
無表情の人間への恐怖ではなくて、心を持ったロボットが殺す、ことを手段としてえてしまう、実行してしまう心の動きが怖かったのかな。
じゃあ、美しく感じてしまったのはそれが心が動いたからなのか。
あの一連のシーンの喜怒哀楽の詰まってる感じ、すごい。
結婚、という喜びから、大切な人を失う悲しみを経て、最後に怒り。
ぎゅっとしたあの、喜怒哀楽がさ。
でも、それを得た彼らが愛おしくてさ。
フリードリヒ!!!!!!!!って怒りすら湧いたし、ただその彼もきっとそうしてただ無抵抗に殺されるロボットたちの姿に沢山傷付いたんだろうな。考えることが仕事のフリードリヒが、もっとあたたかくて幸せなことを考えられる世界ならよかったのにな。


あそこで、ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん、と呼ぶことに最初はくそ・・・ってなったんですよ。悪意すら感じるというか、ああ、そこでその関係をちらつかせるのはさ、というか。
うまく言えないな。
フリードリヒのことを考えると、というかあの辺りのシーンは、ほんと、人間の悲しさというか。どうしようもなさについて考えてしまって雁字搦めになる気がする。
でも、もっと素朴に呼んでた可能性もあるのかもしれない。いらない、と一方的に人間に捨てられそうになった彼らが、彼らを守るために一生懸命考えた結果なのかな、とか。自分も同じそして自分たちを生み出すきっかけになったふたりにひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、って呼ぶのは彼なりに心のやり場だったのかな、とか。


物語は、一色じゃないので、悲しいも愛おしいも同時にやってくる。


フリードリヒが考えるのが仕事だ、と言ったことを思い出す度に、ごめん、って思う。人間がどうしようもなくて、悲しいこととか考えさせてしまってごめん、って思う。

 


吹原さんの話は、だけど、いつも残酷なことを隠したりはしない。痛いことも悲しいことも、ただただそのまま描く。
独りぼっちのブルースレッドフィールドも、うちの犬はサイコロを振るのをやめた、もほかの作品だって、それはブレなかった。


あと、もうひとつ、とんでもなく悲しかったのが、辰郎とグレコの選択なんだけど。自殺っていう。
自殺ってのがどうにも苦手だ。創作上でも、叶うならなるべく見たくない。どんな理由があろうが、何があろうが、這いつくばってでも生きてくれ、と思ってしまう。死んだら、何もならない。
死んで向こうで、なんて詭弁だと思ってしまう。
だから、ほんとに、どうしようって思ったんですよ。勘弁してくれ、その選択はやめてよってめちゃくちゃ思って。
でも彼らにとっては生きてたら何とか、とか生きてたら味わうだろうほかの幸せとかそんなんじゃなかったのかな。
人間の方の正田辰郎の紹介文で、ただただ彼女が笑うことだけを考えてたんだな、と思った。
彼女が悲しむところを見たくない、というそれだけが基準でそれ以上もそれ以下もなく、善悪の判断とかたぶん、関係なかったんだよね。
辰郎を看取りたいであろう彼女の気持ちよりも彼女が悲しむところを見たくないっていうある意味でとんでもなく身勝手でがむしゃらな愛情が辰郎や、メカ辰郎の根っこだとしたら、そりゃ、仕方ないか。それをやいやい言えないか。
グレコもきっと、そういうところが、辰郎に似ててだからこそのメモリーチップとの出会いだったのかなあ。

 


そんなわけで、私はカーテンコール、呆然としてたんだけど、その途中、グレコの曲を思い出して、ハミーとの会話を思い出す。音楽は作り出すことは出来ないんだと言ったこと、その彼が約束の彼女の為の曲を作ったこと。

 

あとね、羊羹がね、羊羹のエピソードがね、最高だったの。メカ夫婦がふたりで初めて美味しいって思ったものだもんね。だから一緒に食べたいよね。美味しかったのはきっと好きな人と食べたからだよ、なんてロマンチックなことも言いたくなるよ。
そんでさ息子がさ、事故じゃなかったよって言うじゃん。事故じゃなかったよ、父さん僕、長生きしたよって。あそこ、愛おしくてたまらなかった。みんなみんな、背負って生きてきたんだなあ。


好きだ、大事だ、笑ってて、幸せでいてって一生懸命みんな祈ってて。
ジェニーと清二さんのエピソードも大好きなんだけどね、なんか、もう、そうだよなーーー。
人間を看取る為に生まれた、誰かの為に誰かの気持ちを背負って生まれた彼らがだんだん自身の気持ちとか思いも一緒に背負って生きていったことを考えてる。できたら、優しくてあったかい気持ちだけ背負って欲しかった。だけど、そうはいかなくて、でも優しくてほんとなあ。
結局、いつも、シンプルなところに行き着く。


唐突にああそうだ、心とはこんなに美しくて優しいものだったんだ。と、そこで思い至って泣き出したくなった。抉り取って抱き締める、その言葉の有言実行っぷりに、泣き出したくなった。


どうしようもない残忍さも、身勝手さも優しさも美しさも、全部心の部分から始まる何かだった。


R老人の大好きだった台詞、「魂とは、知性に宿る」って言葉の優しさ、本当に大好きでした。何度も何度も、この数日思い出していました。
魂が知性に宿る、というなら肉体的生命に関係なく、それはそうなんだと思う。とどのつまり心臓が動いていても、知性を失っちゃったらきっとそれは魂を失うことなんじゃないかしら。
どうしようもないところもあるし、傷付けるし傷付くけど、例えば森山のついた嘘のように知性、が優しさを生むこともあって、それを魂って呼びたい。
そんでそれは、きっと、残るんだと思いたい。

 


今回、あと、吹原さんの台本ト書きの世界がひっくり返る、という表現の愛おしさすごくないですか?って思った。というか、ひっくり返っていたのだ、ということにガツンときた。そうか、場転って世界がひっくり返る、か、そうか、そうかって。
森山がさ、料理焦がしちゃうじゃないですか、「ひっくり返せなくて」世界がひっくり返る、とト書きで書かれるあの物語でひっくり返せなかった、彼についてなんだか妙に悲しくなってしまって、八重子にあなたとなら事故の前のように話せる気がする、と言い募る姿が悲しくて、しくしくする。
森山の世界は事故でひっくり返ってしまったんだ。ひっくり返って、戻らなくなってしまったんだ。その逆さの世界で、唯一逆さじゃない、メカ夫婦。


死んだ後の世界はあるのかな。死んだ人は何もできない、といった森山は自分を見守る人にも会えるのかな。


あの、弟(台本では家族全員、でおおおあってなった)を食べてしまった彼。そして、あの瞬間のお芝居で、その弟、がどんな顔をしてそばにたってるか。が伝わってきた。
死んだ人が、見守るとはよく言うけどそら、恨んで呪ってる人もいるはずなんだよな。死んだ人は何もできない、というふたりの「面白い」話を考えるとさ、でも、この見守る、もそうなんだよね。
見守る、守ってくれる、も呪ってる、許してくれない、ってのもぜーんぶ、何もできない、なんだよね。生きてる人間がどう思うかで、それに救われたり苦しんだりするんだよね。

 


死んだ後、彼らが再会できるというのがひとつ、この物語においての救いだった。
死後の人々を見ることができる森山の存在はあの物語にとってとんでもなく優しかったけど、私がもう一つ優しいな、吹原さんありがとう、と思ったのは老人森山の死が近くなって、の台詞。長い時間や生きてきたという事実が人に穏やかなものを与えてくれるんだってのはやさしい。


(だから、生きてて欲しかった、と思っちゃったけど)

 


かなしかったけど優しかった、という話を終演後、淳さんにお伝えしたら、優しい話だからこそ、森山がいるんだ、という話を聞いて、もっかいタライが落ちてきたような気持ちになった。
そうだった。
死んだ人が見える彼がいたこと、死んでしまったグレコとハミー、そして夫婦がいたこと。
(ところで、森山のあの短いシーンで彼が普段見ている死んだ人間がいる世界の恐ろしさと八重子の存在に気づいた時の森山の心境に想いを馳せてしまって物凄く苦しいやら切ないやら愛おしいやらで忙しいんですけど)
R老人は、なんか、幸せな話としてとっても悲しい話としてとってもいいよ、という懐の広さが好きだ。し、やさしい話だと思うよ、と聞けたから尚、輪をかけて好きだ。

一寸先はネバーランド、とパンフなどに書いてある。
ネバーランド、永遠の、世界。

 


死んでしまうけど、どこかで会えるかもしれない。
そこはもしかしたら、ふたりは永遠に、過ごす世界なのかもしれない。

 


それは、ひとがどうしようもないものととんでもなく美しいものを持ち合わせた存在だ、と動かない悲しくて優しい事実を突きつけてくれたこのお芝居が見せてくれた優しい「もしかしたら」の世界を私は願わずにはいられないんだ。