えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

CUBE

※直接的なネタバレは極力避けていますが、ネタバレのような話は出てきますので十分お気をつけください。


根本的に「グロい話」が苦手だ。痛い、ということを過剰にもしくは丁寧に伝えられるとアアアアアアア…と言いながら折り畳めるだけ身体を折り畳みたくなる。
だというのに確実に「痛い」描写があるだろう『CUBE 一度入ったら、最後」を見ることに決めたのはいくつか理由がある。
一つにはもちろん、こないだブログも書いた星野源のCubeがかなり最高だったからだ。




しかし、それ以上にラジオやインタビューで語られた菅田将暉さんの言葉と、菅田さんの目を通して語られる監督の姿勢に興味を持ったことが大きい。



CUBEとは元々、カナダで作られた映画である。箱の中……1シチュエーション(いろんな箱を移動はするが)という制約のなか、極限の状況とそこに追い詰められ浮かび上がる人間の姿、というものを描いた作品らしい。
(まだオリジナルは見れていない。かなり日本版とは印象が違う予感はあるけどそれはそれで見てみたい)
オリジナルの監督から直々に公認されたこの"日本版CUBE"はオリジナルと枠だけ設定が同じである。
殺人トラップが仕掛けられた謎の箱の中、気が付けば連れてこられた6人の背景が違う男女。果たして、彼らは外に出られるのか。


なんとなくだけど"出られるか"ということよりも、その「生きるか死ぬか」の状況で人はどうなっていくのかの思考実験のような感じが、「果たして観れるのか」と色々調べているなかでしてきた。
もちろん、一つ作品……キャラクターたちの目的は「脱出すること」だとは思うんだけど、それ以上に浮き彫りになっていく人間模様、本性こそ、この作品の面白さなんじゃないか。



CUBEの予告を見た時から、キャストの豪華さに興味は持っていた。ただ、"殺人トラップ"という響きにああ、私には縁遠い作品だな、と一度はとった距離がぐっと縮まったのはその「人間模様、本性を描き出すこと」に惹かれたからだ。


そもそも、CUBEは出られない物語だ。
このコロナ禍というそれこそ「出口が見えない」状況下でこの作品が生まれたことを観たいと思うようになってから考えていた。
もしかしたらそれは無理矢理現状と作品を結びつけた野暮な憶測、表現なのかもしれない。
だけど、どうしても、例えば岡田将生さん演じる越智が口にした「もう疲れました、進むのも死ぬんじゃないかって怯えるのも」という言葉は私にとってあまりにも覚えがある感情だったのだ。
なんとなく、そうか、それは、今作りたいと思うな、と思った。それはもちろん、勝手な妄想からくる共感なんだけど。
だけど、CUBEを「日本の物語」として作りたい、と思った人がいたことがすごく、素敵だと思った。

ツイートもしたんだけど、



と、勝手に感じた。
それは「星野源オールナイトニッポン」にゲスト出演された菅田将暉さんが口にしたヒューマンドラマとして描くことへの葛藤があった、というエピソードからのバイアスもあったかもしれない。
だけど、たしかに私は観ながら恐らくオリジナルの中にもあっただろう核の部分、そこを守りながら、きっとその作品を「観客」として観た監督の愛情のようなものを感じたのだ。
その作品に心を動かされ、動いた心をアウトプットしたい、生み出したいと願うその人の心のようなものが愛おしくてたまらない私にとって、それはなんというか、眩しくてすごく、最高のものに思えた。


もちろん私は書いた通り、CUBEオリジナルを見ていない。ヒューマンドラマにすることへの違和感を感じるひともいるんだろう。
それはどちらが正解という話ではないのだ。



って、打ってまして、公式サイトを確認しにいったんです。キャラクターの名前の漢字確認するために。そしたら、各キャラクターのSNSのリンクを見つけたんですね。ああそういえば、上映後のアンケートの中にそんな話も書いてあったっけな、と思ってそれぞれのアカウントを見たんですけど…。


すごい。
なんだこれは。こんなに作り込まれたキャラクターのアカウントはなかなかに見れないやつだ…。
何をリツイートするか、いいねするかまで作り込んで、「生きてる彼ら」を身近に感じる。
作中は鈍くだけで済んだ彼らの運命への痛みとか悲しさがいま、結構、しんどいくらいに迫ってきた。生きてる、生きてるんだな、彼らは。同じように。


そしてアカウントの作り込みを見れば見るほど、「持ち得る手段全てを持って、伝えようとする」という姿勢と熱量を感じて、今大の字になってうーうー言ってる。すごい。凄まじい。愛じゃん、それは。

私が何かを伝えようとするひとが好きだというのはあるけど、でも、そっか、だからだ、だから私はCUBEが気になって、そして実際観て、すごく好きだ、と思ったんだ。



徹頭徹尾、伝えたい、伝われ、という熱が凄くて、それがしかも独りよがりじゃない、と感じたのは、全手段を持って伝えようという熱量のせいかもしれない。魅力的なキャストを揃えたことも、星野源が主題歌を担当していることも、恐ろしいほど作り込まれたキャラクターのSNSアカウントも。
そしてそのスタートは「日本版CUBEを作る」というこの企画そのものから、始まってるのだ。



ところで、救いのある話、というのは果たして本当に「救いがある」のか?ということを時々考える。
Cubeの歌詞の中にもあるとおり、逃げ場なんてないし、憎しみはここにある。
そんな中で描かれる「救いのある物語」に時々私は、勝手に傷付くことがある。
めでたしめでたしと無遠慮に語られる物語にそんなことあるかよ、と悪態を吐きそうになったりとか、現実の残酷さとのギャップにやられてしまうのだ。



生きていく、あるいは生きていける、は希望なのか。
むしろ、そんな酷い話があってたまるかと思う。CUBEのなか、恐ろしい殺人トラップが張り巡らされた箱を突き進む彼らはその間ずっと「死ぬかもしれない」という恐怖に晒され続ける。言葉は悪いけど、生きてしまってるばっかりに。
その上、この作品は「だから生きるのはこんなに地獄ですしんどいですね」なんて簡単な結論もくれないのだ。



CUBEは、安易に「生きてることは素晴らしい」や「だから生きていくのは地獄だ」とは言わない。人間という生き物の美しさも説かない。むしろどれくらい最低で愚かでどうしようもない生き物かを描く。
そして、その中でそれでも、ともがいてしまう、愛おしさと悲しさ、残酷さを描いたように思うのだ。
単に試練を乗り越えて生き続けることを讃えたり美化したりせず、救われるなんて優しい嘘もつかず、それでも、と本当に微かに、でも決して消しようもない苦さと強さを、描いてくれた気がする。


それはCUBEを描く必要のない物語だ、というひともいるかもしれない。もしかしたら、私もオリジナルのファンならそう思ったかもしれない。
ただ、思う。監督は、たぶん、ものすごくCUBEという作品が好きで、向き合って、作ったんじゃないか。
なんでもよかったわけでも、自分のために作品のメッセージをねじ曲げたわけでも、たぶんない。
どうしようもない状況の中でも生きたいと思ってしまう絶望も、どっちにいっても苦しくてしんどくて塞ぎ込むような閉塞感も、全部描きたいと思った時、もしかしたらCUBEという作品に行きあたったのかも知れない。



そして最後に、どうしても星野源ファンとして、この作品の最後にCubeが流れることが最高だった話がしたい。


ポップだから、とか明るいイメージがあるから、という世間評価について色々書くことは、野暮で下品かもしれないけれど。


私は星野源の音楽の容赦なさが好きだ。簡単に絶望させてくれない優しくなさが好きだ。知れば知るほど、好きだと思う。
希望は込めなかった、というCubeは映画CUBEの中の菅田将暉さんのお芝居があったからこそ、生まれたらしい。
それでも生きるのだと、歩き続ける・歩き続けてしまう彼の強さ、生命力。それを良いとも悪いとも言わず、ありのまま歌う、奏でる。
映画観てから、この曲聴くと、脳内で後藤さんが走り出すんですよ。作中、走り回る!みたいなのはないんだけど。
なんか本当に、徹底して、伝えたいテーマがブレてない気がする。テーマ、なんて一言で纏められやしない、すごい、なんだろうぐるぐるしたエネルギーのようなものが一本筋を通して作品の中にある。
この作品を作ろうとした時に星野源に主題歌を作ってもらおうって話が出たこともそれが実現したことも、この作品を受けて、この曲が生まれたことも、なんか、すごく、嬉しくて奇跡のようで、心臓がバクバクしてる。それは、まさしく、橋じゃないか。




もうね、感想書いてて思ったけど、書きたいことが、すごくあった。すごい、熱量がぐるんぐるんしている。それは、きっと、彼らが苦しみながら届け届けとこんなすごい作品を生み出してくれたのがたまらなく嬉しくて心臓が跳ね回りまくってるせいだと思う。


たぶん、私は何より、この話をこの今作ろうとして、本当に作り上げてくれたひとたちがいることがたまらなく嬉しいんだな。



ハッピーエンドだともバッドエンドだとも言わず、白黒ハッキリつけられない、あるいは言葉にならないどうしようもないものをそれでも形にしようとし続ける、物凄い彼らに心から拍手を贈りたい。ありがとうございました。