えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ぜろ

オタクなので、推しの誕生日はついケーキだとかその人の好物だとビールだとかでお祝いしてしまう。本人不在の誕生日会はオタクならわりと馴染みのあるものじゃないかと思う。


そんなわけで、私は今週1週間、この誕生日を祝うことを一つ杖のように思いながら過ごしてきた。うっかり暑さにやられてダウンしたりもしたけど、それでも今日、彼の誕生を祝い彼の生活がこれからも……クソでも良い、それでもと歩めるものでありますようにと願うことに決めていたのだ。



彼、とはMIU404の志摩一未のことである。
星野源さんが演じているとはいえ、「架空の登場人物」。そんな彼に、私はなぜかずっと、心を寄せすぎなくらい寄せてしまっている。
一応は存在しない、ということを理解しているつもりだけどでもどっか本当に伊吹とふたり、走り回っているような気がしている。
それは、源さんとあやのごさんが、ではない。
志摩と伊吹が、あのメロンパン号で東京の街を走り回った彼らが、どこかでたしかに生きて、同じようにこのクソな世界で一緒に生きている。私はどうしてもそう、信じ続けている。



この話は、2020年の時もしていた。



全く、感傷も良いところだ。子どもならともかく、成人して随分経つのに情けない。そう思うくらいずぶずぶに、たぶん、私は志摩のことを心のどこかで本気で存在させてしまっている。
音というものが聴くひとが存在して初めて「音」になるんだとしたら、この思いをもってして、志摩ちゃんも存在してるということにならないだろうか。


なりはしないんだけど、まあ、それはもう十二分にわかってはいるんだけど。



それでも、あの2020年の時間を(正確には作中では2019年の彼ら、なんだけど)過ごした彼を、彼らを他人事に思えない。

そういえば、2020年はそこそこにかなり個人的な範疇でいろんなことがあって、結果的に未だにずるずる引きずっている1年でもあった(とはいえ、そんな人はたぶん、たくさんいた。むしろあの1年からみんなずっと非日常の中を生き続けてるし、それは本当はずっとそうだったんだと思う)
それまで無理やり押さえ込んでいたものの蓋が外れたせいか、ネガティブな自分と再会することにもなったあの年、バッドトリップでの志摩の選択は言葉じゃ表し辛いほど、衝撃があった。
自分を重ねてみすぎてしまったせいかもしれない。
分かる、という共感と、それでも私なら出来ないような強さと誠実さでまっすぐ彼なりに立ち続けようとすること。そんな姿が、私が志摩のことを好きだと思った一番核の部分だったわけだ。だというのに、その志摩が「もう疲れた」と言うこと。
あの選択をするということ。
それを、理解できないと思えないことが悲しかったし、もう良いよ、と思ってしまったことが未だに時々、心底悲しくて苦しくなる。



そしてだからこそ、それを越えた彼が「間違えてもここからか」と笑ったことをずっとずっと、大切にしている。


ああもう良いか、と思う衝動はたぶん、理屈ではなくてタイミングなんだろうと思う。それこそスイッチで、何か一つが違えば全然結果が変わる。理不尽と言ってしまえばそれまでの、理屈の通っていないものでしかないんだと思ってる。
でもだからこそ、私にはあそこで、生きてここで苦しめ、と笑ったことも、間違えてもここからか、と笑ったことも大事なのだ。
そういうこと、と、笑った伊吹と今日もどこか、東京の空の下、ブーメランを食いながらでも、悪態を吐きながらでも生きて生活しているんだと信じられることが、大事で何度も何度も確認しているのだ。
あなたがそう笑うならとメロンパンに齧り付いてでも過ごすと決めた。



自分を切り離してエンタメを楽しめないことが情けなくて心底嫌になる。
それでも、やっぱり私は、そうして楽しむことができるエンタメが好きだ。別にこうして心をずぶずぶにしてもしなくても楽しいエンタメが好きだ。




分かるよ、という言葉が追いつかないことがいくらでもある。自分の内側にあるものをどうあっても届けようがないんだということに誰かの内側にあるものを寸分間違えずに理解できることはないんだということにどうしようもない気持ちになる。
それでも自分を重ねて、誰かを重ねて、心を揺らせるエンタメが好きだ。この形で触れなければ、共感どころか想像すらできなかったものを知ることができる、触れたと勘違いできるエンタメが好きだ。


答え合わせをすれば、全く違う景色を見ているかもしれない他人同士が笑い合えるエンタメが、好きなのだ。



それを、思い出させてくれた、そう思っていても大丈夫だとあの年教えてくれたMIU404のことが私はずっと大好きだ。そしてその私の好きの真ん中にいる志摩ちゃんの誕生日はやっぱり私には特別なんだ。
志摩ちゃん、生まれてきてくれてありがとう。あなたのクソなことがあってもそれでも楽しい今日や明日をこれからも祈ってる。それが私なりの誠実の形だ。