えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

笑いのカイブツ


この間、歳上の信頼する人と飲んだ時にあれやこれやと仕事の話になり、最終的に「どう生きていけばいいかなんて分からないよね」と頷きあってしまった。
どういう状態でいたいかは分かる気がする。だけど、どう生きていきたいか、どう生きていくかは難しい。学生時代から難しかった気がするけど、なんとなく「大人になればわかるかもなー」と楽観視していたらむしろ大人になればなるほど、分からなくなってきた気がする。

 

 

 

 

ふとその楽しかった飲み会のことを考えて、でもツチヤは分かってたんだよな、と思った。どうしたらそうなれるかの正解は分からない。だけど、そのために自分が何をするか、そうしてどこにいきたいかは彼はずっと、決めていた。
そう決めて、タイマーを握りしめて「これ以外をやってる暇はないのだ」とお笑いと向き合い続け、「面白い」を生きる基準にしていた彼のことを思う。

 

 

 

この感覚をなんと呼んだら良いのか、ずっと考えている。
ストレートに好きな映画だったかと言われると難しく、かと言って「役者の芝居だけ楽しんで帰った」というには心の中に残った感覚が愛おしい。
もしかしたら分かりやすいメッセージや「オチ」がなかったから私の中でこの物語、映画をなんと言葉にしたら良いか分からないのかもしれない。
ただ、それも当たり前と言えば当たり前で元となった自叙伝含めて、作者こと「ツチヤタカユキ」は生きていて、まだ彼の人生に「オチ」はついてないのだ。そういう意味ではそれも含めて、私はこの映画が好きだった。その中で描かれたワンシーンワンシーンも、また、この映画が作られたことも、どれも嬉しいな、と思う。

 

 

 


私が「ツチヤタカユキ」を知ったのは、若林さんのエッセイからだった。
超がつくほどの「オードリーのオールナイトニッポン」のにわかリスナーである私は「ツチヤタカユキ」の放送をリアタイは出来ていない。だけど「人間関係不得意」から始まった彼らの交流に若林さんの文章の中でじっと息を詰めながら読んでいた。
若林さんの目を通して語られる「ツチヤタカユキ」の気持ちも、若林さんの気持ちも分かるような気がしていた。若林さんの語る息苦しさ、なんなんだよ、の地続きで読んでいたからかもしれない。

 

 

俺たちみたいな人間こそ経済の中で我慢しながら好きなことにしがみついて、その先で市場からお金を巻き上げてやるべきなんだと。そんなことを言った。

 

 

 


初めて読んだ時、その文とその前後のTことツチヤタカユキとの会話が衝撃で、私はずっと、彼のことを覚えていた。

 

 

 


映画を観て、改めて思う。私はもしかしたら「三年」の先にいるのかもしれない。いるからこそ、「三年頑張れ」と声をかけたくなる。耐えてくれ、と思う。こんなところで折れてくれるな、と願う…それ自体が、どうしようもなく傲慢な思いだとしても、そう思ってしまう。
許せないことはたくさんあるだろう。無駄だと思えることばかりかもしれない。だけど、その先それを積み上げた先にきっと、君が望む世界が見えてくる。やりたいことがやれる場所へときっと、連れて行ってくれるのだ。

 

 

 

 

でも、きっとそんなことを言えてしまう私はもしかしたらもう根本、彼のいる場所どころか「生きるのクソ下手」とも言えない人間になってるのかもしれない。
うまく生きていけないけど、なんだかんだ、社会での立ち方や振る舞い方を覚えて、やりたいことのためにプライドを捨てることだってできて。それはきっと「器用な大人」のように見えるんだろう。

 

 

 

 

ちょうど、観終わった直後、友だちと飲んだ時にそんな話をした。
その中で、「同じ星の人からのアドバイスなら聞けると思うんですけど」と言われた。三年頑張って、その先に本当にうまくいく未来があるか、わからない。だから頑張れ、という言葉をそのままは受け取れない。


私は私のことを「うまくやれない銀河」にいると思っている。そこの主食……いや、酸素のようなものはきっと「面白い」だ。
面白いもの……映画、お笑い、お芝居、ドラマ、音楽に小説、ダンス、漫画、ラジオ。ともかく日々の中での面白いを求めて、まるで食べるようにしながら、生きている。
だけど、そうじゃないんだな、とも思う。私は同じ銀河のように感じているけど、きっと、そうじゃない、それだけじゃ足りない。同じ星にいないから、私はツチヤの、そしてその友だちの地獄を本当に知ることはない。きっと彼らが、私の地獄は知ることのないように、それぞれの場所に地獄はある。
そんなことをこの映画のこと、そして若林さんのエッセイを思い返しながら思う。

 

 

 

パクるくらいなら死にます。
そう、あの会議室で立ち尽くしながら言ったツチヤのことをずっと、観終わった1週間、仕事中、思い出していた。
パクるくらいなら死ぬ。それは、はたからみれば、「大袈裟な」なのかもしれない。パクってでも、売れたい。そう思うことが普通でだから、彼は疑われたのかもしれない。だけど、そうだよな、とあの時思った。そうだよな、パクって、パクった作品が自分の名前として世に出るくらいなら、死ぬよな。
そんな恥、耐えられないよな。

 

 

 


それはある意味で、彼がタイマーを片手に、延々とネタを書き続けた、あの姿にもつながっていく。面白くなかったら死ぬ。誰よりも良いネタが書けないなら死ぬ。
その基準の全ては理解できない。できないけど、いくつかは「ああそうだよな」と思う。だから、心臓がきゅっとなってるんだ、きっと。
分かるところ、わからないところ、伝わること、一生伝わらないこと。そんなものがごちゃ混ぜのマーブル状になっていて、だからなんだか妙に寂しいような、心臓の軋みを感じるんだ。

 

 

 


苛烈と言ってもいいかもしれない。

 

 

 

 

どう考えても奇怪な行動
少なくとも多くの人はこの映画の中に「自分」を見つけられたりはしないだろう。
生きづらさの共感や肯定なんかじゃない。
共感も肯定もできるはずがない、彼ほど真っ直ぐ、お笑いだけを信じてやりたいと思って、縋ってしがみついて、身体の中に取り込んで、生きることができると思えない。

なるほど、確かに怪物だった。面白いことがしたい、面白いことを作り上げたい。売れたいだとかモテたいだとか金持ちになりたいだとかすら入り込めないような一種狂気のような気持ちのあの感情を、ずっと覚えていたいと思う。

 

 

 

 


ピンクの男のこと、または彼女のことを思う。彼らから見たツチヤのことを思う。
彼をおいていく、置いていくけれど、きっと、あの顔をしてしまうに違いないのだ。
ピンクの台詞、あの居酒屋のシーンの感覚。何が変わるわけでもない、救いにもならない。
あの夜は、「この夜があって良かった」という夜でもない。だけど、私はあのシーンが好きだった。

 

 

 

一生、理解もできない。同じ地獄にも立てない。

 

 

 


だけど、どこか、それこそ岡山天音さんの言葉を借りれば「どこにも反響しない音」を鳴らし続けたことがある人は、どうしたって彼を愛おしく思ってしまう。彼のこれからが面白いで満ち溢れることを祈り続けてしまう。

 


自分にとってこの映画がなんだったかを語り尽くすには私の言葉は少し足りない。だけど、この映画を観て良かったという事実だけは、何があっても変わらない。

 

そういえば、このブログを書くために若林さんのエッセイを開いたらああそうだな、と思う言葉があったから、最後に引用したい。 

 

 

 

クソだからこそ生き遅れてやるべきなのだ。