えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ひきこもり先生

逃げてもいい、と言う。苦しい時は逃げてもいいと言う。そのヤキトリが今日、「いつかは一歩、立ち向かわないといけない」と言った。
なんなら先週、またぼろぼろに折れたヤキトリもその「一歩」を踏み出した。
無理をしなくていい、と言われ、無理をしなくちゃいけないと言って歩き出す。



元引きこもりで、十一年引きこもっていた五十の男が先生になり、同じように引きこもりになりそうだったり、不登校気味の生徒と触れ合っていく。

そんなあらすじを聞くと「ハートウォーミング」で「教訓」的ないわゆるお説教ドラマだと思うだろう。
タイトルもずばり「ひきこもり先生」。

だが、佐藤二郎さんのフレンドパークでのツイートが流れてきて、絶対に観ようと決めた。
思わず「キャラじゃない」ような涙をこぼしながら言葉に詰まって「ひきこもり先生」について語ったという話を聞いて一体そのドラマはどんなドラマだろうと楽しみだった。


そしてその期待は覆ることなく、むしろどんどん話数が進むごとに面白さが増していく。
説教臭さなんてものには対極の、いっそ残酷なくらい真っ直ぐ現実を見せつけてくる。
台詞選び一つ一つが、甘やかしてくれることもなく、それっぽい解決策なんてものを許さない。
生徒たちの問題が大きく解決することなんて、このドラマではほとんどなかった。ただただ、それでも言う。生きろ、と。生きろ、生きろ、と言い続ける。


生きてるだけでいいと言うには、ちょっと生きるのはしんどい。許せないこともありすぎる。
だからこそ、解決なんてものを示されたら、私はもしかしたら、このドラマを苦しく見ていたかもしれない。
しかし、ひきこもり先生は解決を見せてはくれなかったけど、生きろという言葉と、そうして生き続ける彼らを見せた。そして、その「生きる」ことを選んだ彼らが笑っているのは嘘じゃないと思えたのだ。



ヨーダのあの言葉はどこにいくんだろうと思った。
ヨーダこと依田もこのドラマの中では大きな存在感があった。学校というフィールドから少し外れたところにいる存在。だけど、地続きの彼。
第四話。美しすぎるとすら感じた照明の中、佐藤二郎さんと玉置玲央さんのやりとりは息苦しさも感じるのにずっと見ていたいようなそんな大切なシーンだった。
私はヨーダがすごくすごく、好きだ。
不器用で、でもそれこそ一歩踏み出した瞬間は美しくて。だというのに、全部がうまくいくような奇跡は起きない。
だから、私は彼の言葉が、物語がどこに行き着くのか、何を言うのかを最終回、固唾を飲んで見守っていた。
彼は自分の人生を良かったというのか、それとも最悪だったというのか。
でも、そうだよな、終わってないから、そんな結論出せるわけがない。




正しくあることは、幸せになろうとすることはとても険しい道なのかもしれない。
険しいというか、そんなもの、存在しない。
最近はより、思う。正しいこと、が一つあればもっと楽になるのに。



このドラマを企画された方が色んな教師の方々にインタビューした、と話されていた。




その中で、その教師の方々が「どうしたらいいか分からない」と言っていた話を観ながら思い出していた。でも本当に、どうしたらいいか分からない。
まるごと全部、白黒ハッキリつけられるような、あるいは丸っと解決できるようなものは、何一つないんだということばかり、悟っていく。
それは力が抜けるような気持ちになる。



それでも
誰かにとって「なら良かった」と思えるような瞬間になれたら良い。
お母さんの「あなたは自慢の息子よ」という言葉に、陽平の言葉に、喉が詰まるような気持ちになった。


ずっと正しくはいられない。放り出したくなるような、逃げ出したくなるような瞬間もある。
そしてその時、逃げても良いんだと思う。大切なのは、命なんだから。
でもきっと、そうして続けていくとどんどんより苦しくなると思うんだ。


その中でも、自身の命を放り出さずに「なら良かった」の瞬間を迎えることができたら。
一瞬一瞬、良かった、と思える時間が作れたら。そう思いながら生きていくしかない。



ところで。私は、教育現場が舞台の物語や、子育てがテーマの物語を見る時、苦しくなる言葉がある。
子どもたちが、教えてくれた。
度々出てくるそのフレーズに、たぶん、心の中の大人になりきれてない部分が喚く。
もちろん、実際そうだということはわかる。一瞬、教育現場で働いたこともあるので、その思ったことだって、何度もある。


何より、大人なんて生き物は存在しない。


だから、子どもに大人は学ぶ。それもまた事実だ。だけど、そんなの、知ったこっちゃねえよ、と、思うこともある。そんなのずるいだろうが、と思う。子どもだからと線を引いたくせに、と思う。
そんな中、堀田さんの台詞は痛烈で、ああだから私はずっと、あの言葉を聞く度喚きたくなったのかもな、と思った。
とはいえ、私も十分「大人」なわけで、だとしたら、あの言葉にそうだそうだ、と言うんじゃなくて、忘れず、過ごすしかないじゃないか。