えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

LIGHTHOUSE【EP】


苦しいな、嫌だな、全部どうでもいいな。
そんな良くないコンディションに飲み込まれていた。私のその「良くない」は気付きやすくて人の声が聞けなくなる時は結構疲れが溜まっている。
そしてよりにもよって私の仕事は今「人の話を聴く」ことを生業としていて、なので自分もそうだし周囲も延々と人の声がする。
それが耐えられないな、と頭痛と一緒に思うようになったら黄色信号だ。
最近はずっとその黄色信号が点滅していて、それをなんとかしようとその度に脳内再生してあるいは直接この「LIGHTHOUSE」を聴いていた。



そもそも、この番組自体が私にとってはすごく大切な存在になったんだけど、まだその大切さを言語化するにはほんの少し遠い。ただ好きな場面を切り出して「すごいんですよ」とは言えるんだけど、それが私にとってなんだったのか、を言語化するまでには至れていない。
ただ、EPとして繰り返し聴いてる、この時間は言葉にできるような気がしたし、今、言葉にした方がいいという気がする。




灯台を聴いた時、ああこの番組が好きだ、と思った。
「悩みについてのトーク番組」と聴くとまるで「正解」を出して行く展開を予想してしまう。だけど、はっきりとこの灯台はそうじゃないことを示す。
し、だからこそ源さんはとんでもないことに毎回1曲ずつ作っていく、と結論を出すのだ、と改めて思う。




そして阿佐ヶ谷にいた頃の記憶の沁みた時間から生まれたストレートな言葉たちを何度も繰り返し聴いた。


もう三十を過ぎたはずなのに、私はまだ、この感覚な気がする。そうだ、頭痛が職場で起こる度に「お前ら全員死ねばいい」というフレーズを口ずさんでしまって思った。



でも、なんか、そうじゃん。


若くて良いなんて言われても明日死んだら終わりで、
勝手な夢だの希望だのを持ってることを正だと言われて
もう、うぜえな、みたいなことが多くて、だからこそ、それをふたりが話していることが、かつ、それを過去の話とも今の話とも聴こえることになんとも言えないような心地になったことを、思い出しながら何度も聴いた。
その上で、誰も救うな、とさらに言えば「救いはしませんよ」と提示してくれることに安心するのだ。
救われないといけない、と思うことだって苦しいし、救ってくれるはずだという期待は双方にとって、毒にしかならないことがあるから。





そして続く解答者。
全体を通してもそうだけど語りかけてくれるようなどこまでも独り言のような気もする。その温度感が心地いいし、それはこの曲が会話の中から生まれ、かつ、会話の後に源さんの中で熟成されたからかもしれない。
わからないよな、にそうだよな、と思う。まじで、何もわからない。うまくいかない。
十分幸せなのにな。そう何度も思う。
幸せだったりするけど、なんか足りなくて、でも足りないことが認められなかったり、逆に、幸せだってことが認められなかったり。いやでも、そもそも、それってどっかで誰かが「こうです」と定義付けしてくれないといけないものだったのか。
そうされてもされなくてもムカつくし余計なお世話だし、本当にわかることが、ずっとわからない。




仲間はずれを応援歌のように感じる。感じてしまうことを自問自答し続けているけど、でもどうしたって、これでいい、と思いたくて再生してしまう。何も分からないのに、確かに外れている・ズレている自分を、柔らかく良いや、と思う。肯定というよりかは「開き直り」という方が近い感覚がある。

他人どころか自分の視線にも唾を吐け、という言葉に頷く。そうだよな、そうだよ。




ところでうちの職場は定期的に「今のコンディションどう?」という確認がある。いかにも形骸化しそうな取り組みだけど、私はその確認をしてくれる上司にとても懐いてる(なんとも幼い言い方だけど、そうとしか言えない)ので、わりとその時間が嫌いじゃないし、しっかり正直に答える。



だからその日も正直に「苦しさ70%くらいですね」と答えた。
すると上司が心配そうな顔をする。私としてはそんなつもりもなかったのではて…と考え込む。



仕事が好きだと思うし、なんなら結構得意なことを仕事にしていると思う。
そこそこに嫌なこともあるし日々傷付いたりうんざりはする。プレッシャーもあるし、ほとほと疲れている。だけど、私は結構楽しいと思って仕事をしている。




そういうことを上司に説明しながら、あ、そうか、普通、そこそこ順調という時、「70%苦しい」とは言わないのか、と気付いた。じゃあ他の人は大体何%くらい苦しいものなんだろう。




はたから見たら、私は十分幸せだと思う。
とりあえず当面生活に困ることはなく、趣味に費やすだけの金銭的あるいは時間的余裕を持ち
家族は離れてはいるけどみんな健やかに暮らしていて特別仲が悪いわけでもなく
複数の友だちに恵まれて、自分の悩みを共有したり逆に笑い飛ばしてくれる人々が何人も挙げられる。
その上、仕事はやりがいがあり、成長も実感できる。ついでに言えば、意味のある仕事だなあ、と思えたりする。




完璧である。
完璧過ぎるくらいに完璧で幸せそうで楽しそうだ。






なのに私は、いつもどこか苦しい。
その苦しいことにさらに辛い気持ちになる。
幸せなのにどっか苦しいとそもそも次にどうやったら幸せになれるかがどんどん分からなくなる。



十分幸せなはずなのに苦しい。幸せじゃない。
それはアイデンティティの崩壊みたいなひたひたした怖さがある。




そういうことを最近ずっと考えていて、そこそこに苦しくてだけど確かに幸せで、だとしたら何をどうしたら良いんだよって思ってる中で、このLIGHTHOUSEに出逢えてよかった。




Orangeが、好きだ。MC若、今1番注目してるラッパーかもしれない。
クリアした後も積む経験値という言葉を何度も繰り返している。「幸せになりきる」はないことを改めて感じて、それでも、良いかあ、と思う。
そして何より、MC若のためだな、という、その曲の構成に何度もぐっとくる。それは単に引き立たせ役、みたいな意味じゃなくて、あの番組自体がそうだったように迷ったり立ち止まっている若林さんの隣で同じような歩調でじっと見守る源さんの姿勢みたいだった。
そしてそれを歌うこの曲が「わくわくしたい」という飽きたのその先にあること。
全部飽きた、どうしたら良いか誰か教えてくれよ、と思う、その先の先。わくわくするために歩いたその先に、こんなすごい曲がやってくるんだ。
多分、ひとは、本気で足掻いて楽しいを探しに行く。少なくとも私は、私の好きな人たちの姿勢から、そういう道を「真っ当」と呼ぶのだと知ったんだ。






そうして、その後に。
しかたなく踊る、がやってくる。その構成が何度も好きだと思う。
仕方なく、で良いのかもしれない。
晴れやかなサウンドが嬉しい。しょうがない。
人生そのものの肯定でもないけど、その諦めと中指を立てるような怒りの中で、それでも「踊る」ことを選ぶ彼らが好きだ。
意外生きてる、という歌詞の度に私は笑ってしまう。うれしくて。
最近ようやく、「生きてることは嬉しい」と思うようになった。それってたぶん、別に百点満点じゃなくても最高も幸せもあっていいって知ったからだと思う。
しかたなく、進めよう。今日も、毎日を重ねていこう。




ちなみに最後の最後。Mad Hopeがやってくる。
実は、私はこの曲はよく分かっていない。リズムが好きで、あの番組にわくわくした記憶が蘇るから好きなのは間違い無いんだけど、でもこの曲がなんなのか、は本当に全然分からない。
分からないけど、この大好きだな、と思うEPのなかで「分からない」があることも嬉しい。全部が分かりきってるんじゃなくて、まだ知りたい、まだ、なんだろうがある。
それはそれで、やっぱり、生きるのおもしれーな、に繋がっている。