えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

宝箱みたいな街で好きな映画を観る

これはバスがいるなと思ってバスに飛び乗り、遠出することにした。
深夜バスがたまらなく好きなんだけど、スケジュール的な折り合いが合わず、もう2ヶ月弱バスに乗っていない。不調なわけだ。
そんな中、たまたま入った大好きな映画の上映情報。一瞬色めいて、でも正直に言えば、すぐ諦めそうになった。
遠いのだ。更に言うと観たかった映画はインド映画。3時間の上映は、確実に終電の終わりを約束してくる。でも、DVD化するかわからない作品である。インド映画好きの友だちと話すたびにあのたった1回、1月に観れたことの喜びを噛み締めながら「本当にソフト化無理かなあ」と諦め悪く呟いてきたのだ。(正確にはソフト化はされている。日本に輸入されるかどうか、というハードルがひたすらに高い)
それが、観れる。確かに遠いかもしれない。泊まりも必須だろう。でも、それでも良いんじゃないか。





迷っていた私の背中を押したのは、その舞鶴の地がふるさとの友だちからのリプライだった。
舞鶴のことが好きなんだな、と伝わるリプライに自然と行き方とホテルの場所、映画が上映される場所を調べていた。






以前、その友だちとはある映画の話をした。落ち込み倒している時期に見た、なんとか海面から顔を出そうとするような、真っ暗な中をそれでも、と光の方に進んでいくような映画だった。だけど、変わらず、暗いところにはいるような。
その映画がとても好きで、そしてその映画の話を誰かとできたことが本当に嬉しかったのだ。あの時、その友だちの目を通してのその映画の話を聴けたことが嬉しかったなということを定期的に思い出すし、その時の言葉をずっと繰り返し考えている。




私にはそういう手触りの良い石みたいなのが必要でその一つをくれた人が育った街というのを純粋に見たくなったのだ。とはいえ、不躾に街を見に行くのはなんか違うし、なら、今回のようにそもそもの目的がある中でのがてら、ならピッタリだろう。






そんなわけで、家族にも協力を得てハイスピードでバスとホテルを押さえ、その友だちからもおすすめのお店などを聞く。
高速バスに乗りながら楽しみにしていたラジオを聴くだけで変な角がポロポロととれていく気がした。なんなら、バス停までえいやと歩いた時点からわくわくが始まっていた。
普段生活してる街が緩やかにでも確実に遠のいていく。それを振動と視覚で味わえるから、私はバスが好きだ。




ホテルにチェックインし、まずは映画カフェの場所を確認しようとぶらぶら歩きながら過ごす。
ちょうど商店街のお祭りがあったその日はそこそこの雨の日だったけど、アーケードの下は楽しそうにはしゃぐ人たちがたくさんいた。




どこか懐かしいその光景に混ざりたいような、混ざってしまうのは違うような気持ちで歩けば、そのカフェはあった。




可愛らしい外観と今回の目的の映画のポスター。本当にあるんだ!とすでに興奮しながらかなり早いながらも予約が必要かを確認したいし、と足を踏み入れた。
穏やかな男性が招き入れてくれて、ニ、三、映画の話をした。その日はコロナ禍でチャリティのクラウドファンディングでいただいた映画Tシャツを着ていたのだけど、それにもすかさず反応してくれたその方と映画の話をするのは、とても楽しかった。


何より、友だち以外と「大将」の話をするのが初めてなものだから気持ち悪くならないように抑えつつ、話すことの楽しさったら!



私は今回放映されたマスターが好きだ。そこに描かれるひとたちが、映画を信じる姿勢が好きだ。それは、大将……ヴィジャイさんの映画作りにおけるスタンスなんだとぼんやりと知るたびに嬉しくなる。
そして、それを、同じように良いよね、と思い、格好いいよね、と思っている人がこうして上映会をしていること。それがたまらなくぐっときてしまった。また、シアター内はバラバラのでもどれも座り心地のいい椅子が並べられていて、なんだかそれにもグッときてしまう。

じゃあまた、と分かれて明治からあるおふろ屋さんに向かう。
初めて生で見る番台にどきどきしながら、貸切の浴場をぐるりと見渡した。赤富士もそういえば、初めて見た。









お風呂を入って身体を労ること、癒すこと、そうして体に感謝すること。なんか、そういうことが染み付いていて、そしてそれを代々、大切に場を守ってきた人が提供して伝え続けてること。あちこちにそれが染み付いている素敵なお風呂で、ほっと一息つけたことでもう、かなり泣きそうな気持ちだった。




それから、いよいよおすすめのお店へ。
いくつも聞いた中から選んだカフェは、土日限定でピザを焼いてくれていた。ので、多いかも、と思いつつあれやこれやと頼んで。








ここでも、料理の写真を撮っていいか聞くと「なんなら店内も!」と言ってもらえたり、
店内の素敵な絵について教えてもらえたり。
そしてご飯もべらぼうに美味しく興奮しながら食べているとこだわりを教えてくれる。
なんか、私は、そういうのが大好きなんだよな。






誰かが何かを好きで、大切にしたいと思って、それを大切に磨いている、そういうのが堪らなく愛おしくて嬉しくなるのだ。そしてそれに、少しでも長く、触れていたいんだ。





舞鶴は私にとってそんな街のような気がしたし、そんな街に友だちをきっかけに行けたことはかなりな幸運な気がした。





そして、私にとってこの街の時間が120%幸せなのは、私が余所者だからだ、ということも覚えていたいなと思う。地方の出身だから尚更、自然豊か!最高!みたいなのに対して白い目を向けたくなるし、どこか自分のふるさとの街にも似ていたあの街にだってつまりは、澱んだり嫌なことはあるだろう。そりゃ、当然のこととして。だけど、余所者の旅人はそこに勝手な憧憬とか懐かしさとかを見つけて居心地よく思ったりするのだ。
勝手だよな、とも、でもそういうのっているよな、とも思って、やっぱり私は好きなラジオを聴きながらうろうろ、街を歩いた。
優しいこと、好きだということ、大切だということ。そういうものに触れさせてくれたこの街を、覚えていたいなあとひたすらに思っていた。





映画は、相変わらず最高だった。
約半年ぶりに観るマスターはやっぱり辛いシーンは辛く、でも格好良く、イカしてて、パワフルだった。その映画をビールやチャイを片手に観た。映画を真剣に見つめる他の観客の方たちの様子が観たくて真後ろを選んで良かった、と思う。









大好きな映画を素敵な街で見た記憶もまた、きっとすべすべの石みたいなものになって私の頭の中に仕舞われるのだ。



映画終わり、今夜は泊まられるんですか?と聞かれてにこにこと笑いつつ頷いた。なんせ終電はとうの昔にない。でも、あっても泊まった方が良かったな、と思ったと思う。映画の余韻を味わうなら、この街が良かったので。




素敵な2日間だった。おかげで私は、にっちもさっちもいかなくなったら行く場所が、また一つ増えたのだ。






カフェで飲んでたら虹も出た。なんだか、この旅の象徴みたいな瞬間だったな。