えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

波よ聞いてくれ

不思議な感覚だった。
初めからのめりこめたのか、と言われるとそうでもない。正直に言えば、確か2話目までは「なんだろうこのドラマ」と毎話見終わるたびに言っていた記憶がある。



ところが、最終回。全員がミナレの働くスープカレー屋で食事をするシーンを観ていたらなんだか無性に愛おしくなったのだ。
あれは、なんだったんだろう。
それこそ、毎週聴くことが習慣になっているラジオ番組のチャンネルに合わせるように毎週見続けるうちに、彼女たち、彼らへの思い入れが生まれた。




ミナレが好きか、と聞かれると迷う。
ガサツで考えなしで行き当たりばったりで結構バイオレンス。そんな様子にスカッとしていた気持ちとでもなんか「良いよなあそうやって過ごせたら」とちょっと妬みみたいな気持ちもあったような気もするし、おいおい大丈夫か、という心配の気持ちもあったと思う。
でも、気が付けば、目が追うしああ良いなと思っていた。


他のキャラクターたちも同様だ。
極端に感情移入したキャラクターもいない。良くも悪くも、と言うべきなのかもしれないが、好意や悪意を向ける対象、とはまた少し違ったのだ。




良いところも共感できるところも、逆に良くないんじゃないかと思ったりどうなの?と思うところもそれぞれに両方あって、むしろ、だから好きなのだ。





ローカル局(原作だと北海道らしい、なるほど、だからスープカレー屋!)の深夜ラジオを舞台にドタバタと繰り返した数週間。
人気ラジオパーソナリティラジオDJ)たちがかわるがわる担当したオープニングのナレーション演出をはじめ、選ばれるエピソード、台詞にはラジオ愛が溢れていた。
だからこそ私も毎話、見るたびにうんそうだよ、と頷きながら見ていたのだ。





そして、その中でミナレってちょっと私的に異質だったのだ。ラジオに特別思い入れがあるわけではなく、また物語を通して劇的にラジオ好きに変貌していくわけでもない。
最終話冒頭でも描かれた通り、なんならノリと勢い、母親から逃げるためなら、とラジオへの熱量を増すものの、少なくとも、最終話の冒頭時点ではみなれのラジオへの感情は言語化されていない。






今まで自分が聴いてきた、あるいは観てきたラジオが話の軸にあるドラマはほとんどパーソナリティ自体がラジオのことを愛していた。ある意味で私はその熱量に当てられるような形で「ラジオ」を好きになったのだという自覚がある。そんなわけで、なんとなく、ミナレというパーソナリティが分からず、ドラマ「波よ、聞いてくれ」の魅力は感じつつもラジオの1番組である「波よ、聞いてくれ」の魅力を私は長く掴み損ねていた。






だけどそれが、言語化された最終回。





地震の中で「いつもの放送を続ける」のがラジオの非常時の役割でもあるという言葉から終わりのない生放送をやり始める「波よ聞いてくれ」チームたち。
怒涛の勢いで必要な情報、雑談、ジョークを織り交ぜ喋り続けるミナレの台詞でああそうだ、と思うものがあった。





気が付けば夜が明け、朝を迎えた中でみなれは言う。





「でもよくよく考えてみれば学生の頃に夕方6時から友だちと飲み始めてオールで朝6時まで飲みっぱなし喋りっぱなしとかやってたんでその延長だと思えば不思議でもなんでもないんですけどね」




ああ、それだ、とこの台詞を聴いた時に思った。
ミナレは、良い奴ではない。100%気が合うわけでも趣味が合うわけでもない。だけど喋りを聴いていて面白く、またその言動がともかく気持ちのいい人なのだ。
それこそ、8話、なんだかんだと彼女たちのおしゃべりに、ドタバタに、耳を傾けたくなるくらいには。




そして、私はラジオの魅力とは、そんなところだと思うのだ。役に立つわけでもない、全ての瞬間を愛おしくまた共感しているわけでもない。
だけど、ただそこに在ってくれると嬉しい。
そう思うと、鼓田ミナレとは、ラジオそのものみたいな人である。巻き込まれるようにラジオに関わった彼女がそうであることをラジオ好きとしてちょっと嫉妬すらしてしまうのだけど、そう嫉妬してしまいたくなるほどの魅力が確かに彼女にはある。



だからあの、またいつか、帰ってきてラジオやってください。気が付けば「波よ聞いてくれ」が大好きな時間になっていたので。