えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

ランガスタラム

前半と後半のストーリーの違いがと書こうとしてそんなことなかったな、とふと思う。
前半はチッティの恋が軸にあり、彼の気の良さ少しの抜け、危うさがコミカルに描かれている。そう思うけれど、同時にその中でも息苦しさはずっとある。あるのだ、観たくないから観ないだけで。





ランガスタラム、という架空の村は「舞台」という意味だ。冒頭、映画を飾る歌と踊りでは、俺たちは舞台化粧すらされない革の人形と歌われる。これがどういうことなのか、ずっと考えていた。
特にインドの化粧は派手で華やかだ。それが施されない、だけど舞台上にいるもの。
それは脇役、賑やかし、モブと言われる「いるけどいない」人たち。ふとそんなことを思ってしまって勘弁してくれ、と思った。そんなの、嫌だ。
村の人たちはみんな良い人である。ムカつくやつはいるけど、それぞれに生活があり、仕事があり、暮らしがある。




自分にとって馴染みのない風景だからだろうか。インド映画を見る度にその生活の彩りが印象に残る。そしてそこにいる人たちの表情の豊かさに惹かれる。だから、彼らをそういった舞台化粧もされていない革人形だと思うのは、とんでもなく辛い。
しかし、実際に陽気な音楽、高鳴るような恋と並行して、村の残酷さ、ズレが描かれる。そしてそれはチッティの難聴の描写とともに確信をじわじわ得るような描き方がされている。
みんな理不尽だと思ってる。でも声をあげることはせず、ただ、その理不尽を受け入れる。自分の元になるべくの不幸がこないことを祈りながら。




しかし、チッティはその村の理不尽さに兄と一緒に声を上げる。
この兄弟のバランスが本当に良くて真っ直ぐに兄を慕うチッティと、そんな弟を嗜めつつも大切にする聡明な兄クマール。
チッティの兄を慕う気持ちの台詞はどれもそんなに…?!となるくらいに真っ直ぐなんだけど、兄も負けず劣らず、むしろ冷静さと聡明さがコーティングされてるから余計に強い力を持って、弟を大切にしようとする。
その気持ちはそのまま、村を良くしたいという気持ちに繋がる。それが、村の掟であるプレジデントに逆らうということであっても。
プレジデントに逆らったものは悉く事故死に見せかけて殺されてきたことを知ったチッティが必死に兄を守りながら少しでも良い方に良い方にと足を兄と共に進ませる描写は本当に観てて思わず身体に力が入る。





後半の展開をどう言葉にしたら良いんだろう。
賑やかなチッティがどんどん変わっていく姿は、どんな表現よりも雄弁に彼の中の絶望や怒り、悲しみを描いていた。チャランさんの表現力に唸る。
そして雪崩れるような、とも静かに広がっていくように、とも言えるあのラストのことを私は観終わった後、ずっと考えていた。
ある台詞から、世界はすっかりひっくり返り、観客の見ていた世界は一変する。あの感覚が、忘れられない。






そしてその感覚を思い出しながら、この映画のタイトルが「ランガスタラム」……舞台、という意味であることになんとも言えない苦味を覚える。





結局は、舞台の上にしかいなかったということなんだろうか。与えられた「役割」からはみ出すことは許されず、出番が終われば強制的に降ろされる。




そういえば、プレジデントがずっとラジオを聴いていたのは、そこには「舞台の外」があったからじゃないか。
誰よりもあの舞台を利用していた彼はある意味ではあの村の中で一番、あの村がどんな舞台かを知っていた。だからこそ、ラジオで舞台の外にずっと耳を傾けていたんじゃないか。そして、神様に祈ってたんじゃないのか。





舞台化粧もされずに舞台の上で生きていた彼らを思う。だけど、でも、そんなこと、なかったじゃないか。あんなに生き生きと笑い、歌い、家族を愛し、なんでそんな人たちを「舞台化粧もされていない革人形」だとできるのだろう。
そうしたのは、一体誰なんだろう。





あの台詞以降のチッティの台詞を、表情を、声を覚えている。あれは、誰でもなく、与えられた役割を拒絶し、役割を越えて、自分の行動を選んだ、彼を思う。
チッティの感情は、志は、思いは、チッティだけのものである。そうであってほしい。
当分、忘れられずにあの村のことを考えていたいと思う。