えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

さよならほやマン

MOROHAの音楽を、友だちに勧められて知ったことは私の人生の自慢の一つだ。
白い空間にあるマイク。ギターと、MC。
歌い出すかと思いきや、語りから始まったその「たった一回」のファーストテイク。




紡がれる言葉がどれも「ああ知ってる」と思う情景で、息を呑んで画面を見つめた。
飲み会の後の虚しさ、いい人生だよな、と言い聞かせるように笑うこと、



「居酒屋だけの意気込みじゃゴミだ」
「素面じゃ語れぬ夢は惨めだ」






それから、携帯に入れたMOROHAの一枚のアルバム。ここ一番、逃げ出しそうな夢の切れ端に触れる時は、よく再生した。
そんな私が「アフロ主演」と聞いてこの映画を気になり出すのは、そりゃ、必然だろう。








私はこの映画が好きだ。だけど、おいそれと勧めて良いかは分からない。そして、その上で、その上でだけど、やっぱり、大切なあなたに観て欲しいと思った。
だけど、どうかな。少なくとも、私はこの映画を私の中できっと大事に思い続けるんだろう。







言葉の少ない映画。
観る前、そんな評価を見た。
アフロさんの言葉が好きだ。あの熱量で言葉を吐ける、言葉を扱える。そのことに心の底から尊敬の念を抱くし憧れるし、その言葉を浴びると嬉しくなる。力が湧くような、自分だって、とこなくそと奮い立つものもある。
だけど、その言葉を最小限に留めて、物語は進む。アフロさんだけじゃない。出てくる人出てくる人、また、その脚本自体、一級品の言葉ばかりなのに、会話は、言葉での発露は最小限だ。







話は逸れるが、少し前いったライブで、私は心底悔しくなった。
言葉以上に雄弁に語る音楽に、一直線にその魅力を伝える表現に心底、嫉妬した。苦しくてその日は寝れないかとも思った。言葉以外であんなに語りかけることができるということが、羨ましくて仕方なかった。
言葉はいつだって足りなかったり多過ぎたりする。
私は言葉が好きで、話すことが、こうして思いを書くことが好きで、だけど同時にいつも、言葉を尽くせば尽くすほど、伝わらないんだということを確認しているような気持ちになる。







映画を観終わった帰り、真っ直ぐ帰る気持ちになれなくて発泡酒片手に遠回りしながら、そのライブのことを思い出していた。
言葉や会話を最大限に削り、それでも呼吸や表情、動き、宮城の景色で伝えてくるこの映画にもまた私は嫉妬した。
そして同時に剥き出しで生きているとひとって、それだけで何かを表現するんだな、ということも考えていた。







生きていくというそれだけで理不尽なことを続けていく。それすら、ひいひい言っていてなのに、時々努力だとかなんだとかが追いつかないような酷くてどうしようもないことまで起こる。誰のせいだよ、と思うし自分に何ができたんだよ、とも思う。だけどどっか「自分のせい」の棘も刺さっていて、それがずっと、苦しい。
なんかおかしいんだ、と話すミハルにぐっと喉の奥がなった気がした。知らないのに知ってる。映画を観るときに起こるあの気持ちはなんだろう。







春子さんとミハルの会話を思い出す。
春子さんの言葉を繰り返し繰り返し、忘れないように思い出そうと思う。私は人生の理不尽さだとかやりきれなさにもっともらしく諦めそうになることが多いから。
そうじゃないよな、と思う。そうじゃない。
誰だって、つかない折り合いをつけながら自分の人生の落としどころを探してる。もうどうしようもないことも全部抱えて「あり」にする日をずっとずっと待ってる。





眠れないまま、Twitterで「さよならほやマン」を検索し続けた。思えば、この映画への興味をどんどん増していったのは伊集院光さんをはじめ、色んなひとの知り合いだからだけじゃない、ただ「この映画が良かった」という感情で勧める、その言葉たちに惹かれたこともあった。仕事を途中で切り上げてでもこの映画を観たい、と決めた。
その中でアフロさんがやってるコラムを読んだ。映画の封切り、それをきっかけに色んな知り合いに連絡したこと。




「彼らが命懸けで培ったものを無償で分けてもらった」
すごい言葉だと思った。人にこんなに剥き出しで関わっていく、この人だからこそ、とこの映画を面白いと言った色んな人たちのことを思った。そして何より、そうなのは、ただアフロさんだから、だけじゃない。アフロさんだけの、でもない。きっと、この映画に関わる誰かが一人変わっても、欠けても、なしてなかったものだ。


なんとなく、ぼんやりと、重ねるには烏滸がましい経験だけど、知ってる、と思う。



触れた誰かが、堪らなくなるような動き出したくなる、少しでも、と手を伸ばす、そういう剥き出しじゃないと作れない、奇跡みたいな時間を確かに知ってる。そして、この映画は、そんな時間の結晶だ。映画の中で流れる時間はもちろん、その前後、映画に纏わる、すべての瞬間が。
そのことをずっと、考えてる。考えながら思う。






そうだよ、そうしたくて、そういうのが好きで、大事で、私は人と関わってるし、映画を観てるんだよ。






剥き出しでみっともなくて、あちこち痛くて馬鹿馬鹿しくて笑われるかもしれない、無駄足だっていくらでもあるかもしれない、そういう時間を重ねてでもやりたいこと、あるんだよ。





つかない折り合いをどうにかこうにか、許せないことをなんとか許して、笑って、自分の人生を自分のものにしていたい。
誰になんて言われようが自分のやりたいを、自分の人生の真ん中を自分に合わせ続けるために、私はずっと、毎日を送ってるんだ。そしてそのために、映画がどうしたって絶対的に必要なんだ。








さよならほやマンは、そんなことを思い出す映画だった。ああ、出会えてよかった。