えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

あの夜であえたら


ラジオのことを好きになって、なればなるほど、なんだったのか、なんなのか、本当に分からなくなっていく。ただ、やっぱり毎日の中にあって欲しくて、毎週聴いてるラジオがないと私は生活のリズムを崩してしまう。
そんな私は、「あの夜であえたら」の後半、1時間近く、泣き続けながら観ていた。心底、これを配信で見ることにしていて良かった、と思う。会場で見たら、確実に周囲のひとに迷惑をかけていたかもしれない。





もし観ようか迷っているなら、一旦このブログを閉じて見始めて欲しい。ちょっとランタイムが長めだし、きっとその方が楽しめると思う。
ただ、あなたの中にある「ラジオと一緒に過ごした時間」のことを思い出しながら観てくれたら、きっと更に楽しくなる。

そんな作品だった。






物語は、終わることが決まったオールナイトニッポンの番組、最後のラジオイベントが舞台だ。






ちょうどこの春、私にとって大切なラジオが一つ終わったこともあり、なんだか冒頭どころか設定を聞いた時から感情移入してしまっていた。
だからこそ、劇中、冒頭語られる「ラジオだからこそ」とそれに対しての色んなリアクションが心に逆に迫った。





「ラジオ感」は分からない、というイベントプロデューサーも
「ラジオならなんでも話してくれる」というのはラジオ好きだからこそ陥ってしまう驕りなんじゃないかという構成作家の言葉も






どちらもどこか「耳が痛い」言葉だった。
自分の好きなラジオの終わりから、いやなんならその少し前から、私自身がそんな自分の中の「特別な好き」について考えていたからかもしれない。
声だけの文化で、深夜(タイムフリーで聴いていても深夜ラジオには聞いてる間を「夜」に変えてくれる力があると思っている)の内緒話のような感覚があるからか。今までの「文脈」のせいか。
ラジオが好きであればあるほど、そこに「本当」や「特別」を求める。求めてしまう。
果たしてそれは、良いことなんだろうか。





ところで、この前作である「あの夜を覚えてる」でも、「ラジオで語られる本当」の話があった。そこで考えた「本当」についても、ちょうど、ここ最近思い出していたせいかもしれない。
「フリートーク」とは銘打たれていても、実は事前で打ち合わせされていたら。もっと言えば、台本があったら。それは、「フリートーク」じゃないのか。
一体、私たちは何があったらそれを「その人の本当」だと「その人の言葉」だと判断するんだろう。そんなことを考えていると結局は「自分が本当と思いたいこと」だけをそう呼んでいるのかもしれない、と思うこともある。
だけど、確かにあの「あの夜を覚えてる」で覚えたこと、感じたことはあって、でもプロデューサー都築さんの言葉や構成作家、神田くんの言葉が胸に刺さるのは変わらなかった。







「あの夜を覚えてる」は特別な夜だった。配信で演劇で映像作品でラジオで。ジャンルもよくわからない、なんと説明したらあの魅力が伝わるかわからないような複雑な、だけど確かな熱量が好きだった。
だけどだからこそ、「あの夜」という作品を特別だと思ってるこの私も含めた「みんな」が内輪的になり、都築さんの言うところの「そのラジオっぽさって分かりませんよ」ということに繋がらないのか。ふとそんなことを考え込んでしまった。
ラジオのあの「同じ周波数のムジナ」だからこその安心感とそれがあるからこその排他的な感覚は確かに分かるような気がするし、だけど、だけどさあ、と植村さんがなんとか自分の大切なものを守るために走り回ろうとする姿に共感したり「いや、それはちょっと違うくない?」と思ったりしながら、前半はドキドキしながら見守った。






ラジオを、1年やって辞めると決めたパーソナリティ。
楽しそうに笑う姿に、テンポよく出てくる言葉に同じように、一緒に「楽しんでる」と思っていた。まさか、自分で「辞める」という決断をするなんて思わなくて、したんだとしたらなんでか分からなくて「きっと前向きな決断なんだ」と思いたくても、最早自分の願望なのか事実なのか分からなくて、ずっと胸が苦しい。






自分の好きなラジオたちと重なるところがあったからか、あの夜マジックか、いや多分、その両方だろう。ないはずの1年間綾川千歳のオールナイトニッポンNを聴いてきた記憶を抱えながら、画面を見守った。
なんでこんなに、ラジオのことで、冷静でいれなくなるんだろう。なんでこんなに、特別なところに、大きな面積を占めるようになっていたんだろう。




そんな疑問に、この「あの夜であえたら」は答えてくれた、そんな気がする。




生活の一部だからです、ラジオは
非日常じゃなくてドラマティックじゃない日常に伴走してくれるもの




そうだ。毎日をなんとか過ごしながら良い日も悪い日も、どんな時でも、ラジオがあった。
綾川さんの台詞で「今日はこのラジオしか聴きたくないって日もあって」というものがあって、私は深く深く頷いてしまった。うん、うん、そうなんだよ。





あの夜、耳が痛い台詞も「そうなんだよ」って台詞がたくさんあって、びっくりしてしまう。
でもそれは、きっと関わってる人たちのラジオへの思いが詰まりまくってるからなんだろうな、とこの企画に関わる私の尊敬するラジオ業界のいろんな人を思い出しながら思う。自分が好きなラジオを、作り上げてきた人たちが新たに作ったこの作品の色んな瞬間が、本当に嬉しくて、心の深いところに刺さっている。





本当のことを話してほしい、とパーソナリティに思ってしまうこと。特別なんだ、と思って大事にしすぎてしまうこと。
そのことも含めて、ラジオが好きだと思った。






「あの夜を覚えてる」でも無茶するなあと思ったけど今回の「あの夜であえたら」はその更に上をいくくらい無茶苦茶だなあ、と思った。
なんなら、これだけランタイムが長いのも無茶苦茶なのも、伝えたいことややりたいことがたくさんあったからこそなんだろうな、と思う。
どちらかといえば、私はお芝居について言えばランタイムは短めの方が好きだ。だけど、でもやっぱりこの「あの夜であえたら」はそんな無茶苦茶も、長いランタイムも愛おしくなってしまう。





それはきっと、そういう無茶苦茶をしてでも何かを伝えよう、描こうとする人が、そんなばかまじめな人たちが、たまらなく好きだからだ。





「ラジオは本音のメディアだからなんて雑な振りで"あの夜"みたいな奇跡は起きないですよ」


物凄い台詞だと思った。そうだ、そんな雑な振りじゃ、奇跡は起きない。
無茶苦茶だろうがなんだろうが、やりきろうとしないと、やりたいと本気で思わないと奇跡が起こらないどころか、何一つ、形になんてならないんだ。




そして私は、そんな熱量が好きなんだ。そして、私がラジオを好きでいるのはそんな熱量を感じることが多いからなのかもしれない。
特別なんかじゃなくていい、変わらないまま、そこにいてくれなくたっていい、ただただ、好きなんだ。無茶苦茶だから好きなんでもない。
ただただ、あの後半突き動かされるようにバクバク動いた心臓のことを思い出してる。
言葉にするといつもほんの少し足りなくなる、自分の大切な「好き」を思い出す、「好き」が増えていく。






また、大切なあの夜が増えた。この「あの夜」もこれからも何度も何度も思い出すんだんだろう。
うまく言葉には、やっぱり出来そうにもない。だけど、言葉にすることを諦めたくない、そんな大切なあの夜だった。だって、私は、ラジオで「言葉にして伝える」ことの大切さを、確かに知ったんだ。