えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

GHOST WORLD

「それが当たり前じゃないですか?」
「普通そう思いません?」
畳み掛けられるように言われてやんわり「いや、色んな人もいますし」と小声で笑顔を意識しながら返す。「私は、少なくともそうじゃなくて」
傷付けたいわけじゃないけど、手がどんどん冷えてるし息が苦しい気もする。うまく返せてるかな、笑えてるかな。そう思いつつ、喋れば物凄い笑顔で「変わってますね!」と返される。

 

なんてことがよくある。
その度に「はいはいそうです、私が変です、すいませんでした」とヤケになりたくもなる。
ただ、それでも社会でそこそこうまくやってる方にジャンル分けされてるだろう自分のことも十分に理解しているけど、それはそれとしてこういうことが頻発してる私は「うまくやってる」で良いのか?と首を傾げてしまう。
とはいえ、この時代に仕事をやり甲斐に感じて一応は自分で生活を送ってこうして自分の好きなことに邁進もできていれば、十分幸せでうまくやってる、なんだろうな。

 

 


ふと、あの時の息苦しさを思い出した。もっと言えばその後「普通ってなんだよクソが」とキレ散らかしたことを思い出した。

 

 

GHOST WORLDを観てきた。上映から長く多くの人に愛され、きっと色んなひとの希望になってきただろうということは始まる前からも感じた。
多くの人が映画館の前、始まるのを今か今かと待っている。パネルと写真を撮ったり、劇中の服装に合わせてきている人たちは、きっと上映当時、リアルタイムで観れた人もようやく「映画館で大好きな映画が観れる」ということに興奮している人たちもいるんだろう。
老若男女、様々な人たちの嬉しそうな顔を見ながら、今回私もこの映画を大切にしてきた妹のような友だちに誘われてくることができる幸運を嬉しいなあと噛み締める。

 

 

どこか世間に馴染めず、高校を卒業しても職も友だちとルームシェアをする家も見つからず(なんならそもそも積極的に探そうともせず)ただ毎日人を冷やかすように過ごすイーニドとその友だちレベッカ。ふたりは雑誌でいつかの相手を「運命の相手」とでも思うように探す雑誌の記事から、ひとりの男性に出会う。

あらすじを自分なりにこうして書きながらもこれは「私」の書くあらすじだな、と感じる。

 


高校を卒業することができて「せいせいした」と言いつつも次の場所に行こうとせず、あるいは行くこともできず過ごすイーニド。
やがて、友だちのレベッカも働き出し、彼女の「世界とうまく繋がれない感じ」は増えていく。

 

 

この繋がれない感じ、が絶妙だった。
繋がれない、だけじゃなくて繋がりたくない。無邪気に、残酷なまでに無邪気にイーニドは人を傷付けたりもする。繋がろうとすることを嘲笑い、伸ばした手を振り払ったりもする。

 

独自の世界観があって、「世間」に馴染まず、世渡りの術を「馬鹿らしい」と一蹴する。
その姿を、もし私が彼女と同世代の時に見たらきっと「苦手だ」と感じたかもしれない。
サブカルにもクラスカースト上位にも居場所を見つけられず、なんとか隅の方で息を潜めて過ごしていた私には、彼女のスタイルは受け入れられなかった。
だけど、今ならなんとなく分かる。

 

 

彼女の苦しさとか寂しさとかムカつきとか。でももしかしたら、こうして知ったような顔をして「分かるよ」と言ってくる大人こそ、彼女に嫌われる最たるものかもしれないけど。
そういった意味で私が一番この映画で感情移入をしたのは、シーモアだった。
世界の99%と馴染めず、繋がれず、でもなんとか日々を生きて「普通の大人」として過ごしている。

 


ただ週末、ガレージセールで自分の好きなものを熱っぽく語ったり、パーティで同じものが好きな相手と集まったり。そうしながら、仕事や私生活でほんの少しずつ削られてまた直して。
なんならそもそも、その「同好の士」と集まっても彼は傷付いてたんじゃないか。傷物だ、と言われた彼の表情を今週何度か思い出しては苦しくなっていた。
なあ、シーモア、君は君の好きをひとりで楽しんだって良いんじゃないか、とこっそりと思う。だけど、そんなことも分かってるか。ガラクタ部屋だと自嘲しながら過ごしてる姿も、そうだよな、と思い出す。

 

そこからのイーニドとシーモアのやりとりは、おかしく、だけどそっからの悲しい予想に心臓がギシギシし続けていた。

 


どうして、好きだけじゃダメなんだろうと思う。変だって良い、当たり前からズレてたって良い。自分の速度、歩き方で生きさせてくれよ、と思う。
いやでもその「好き」が重なる相手、「あなたになら分かってもらえる」と思える相手でもズレて、伝わらずにああして傷付いたりもする。

 

 

それを年齢特有の「拗らせ」ということは、私にはできそうになかった。
イーニドだけの感覚ではなくて、もちろんあの作品の中で一番その凸凹が際立っていたかもしれないけど。
うまく生きていけていると思ってる人にも苦しさはある。この人だけなら分かってもらえると思う相手にも伝わらないことだってある。

 

 

どっちがより苦しいとかではなく、そのそれぞれに居心地の悪さがあるのだ。どっちが偉いとかイケてるとか、もしかしたらないのかもしれない。

 


その上で思う。心の中にいるイーニドを、私は守っていきたい。それが、今もガラクタ部屋の中で生活する私からのささやかな思いだ。
社会で普通の会話をするためにガラクタ部屋に好きを詰め込んでなんとか過ごしている姿はイーニドからするとどう映るんだろうな、と思う。だけど、どう映ってもいい。許せないとか、あなたは違うのかという失望だってあるかもしれない。
だけど、私はイーニドに「きみはそのままでいいよ」と言うために、このまま、ガラクタ部屋で眠ることを支えにして、外に出る。精一杯普通の顔をして笑って見せる。
きみは、そのままでいていいよ。