えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

メル・リルルの花火、初日、の大興奮

おぼんろさんはいつも初めに「想像力」の話をする。私はあの時間が大好きである。
わくわくするし、なんだかあの末原さんの声を聞くだけで、もしかしたら私たちって凄いんじゃないか?!って思える幸せな時間だ。


そして、今回、「想像力」をフルに使う「音と言葉だけで物語を紡ぐ」というスタイルは、そういう意味でいつもの「おぼんろさん」であり、いつもの「演劇体験」なのだ。
もちろん、いつもの劇場でのおぼんろさんの楽しみは何も台詞や音響が紡ぐ物語ではない。物語の世界に紛れ込める舞台美術、衣装、照明、そして語り部たちの雄弁な肉体表現と表情。それら全てが、私はおぼんろさん最高!と叫び出したくなるくらい好きだ。

 


なのだけど、というよりも、だからこそ。
目を閉じて、想像すること。
物語が私たちの部屋に紛れ込んでくること。


その瞬間に、確かに「いつもの」劇場にいた気がする、あの時のテントに私たちはいた気がする。それこそ(私は配信ではなく遅れて観たんだけど)あの瞬間、すぐ隣に私と同じ「参加者」がいるような気がした。

 

そして、語り部たちが物語を紡いで、その後、ムーヴメントアクターさんが物語を立ち上げる。
ひとりなのに、ふたりいるように、そして七色の雨が降っているようにみえた。
聴覚聴覚して楽しんだと思ったらちゃーんと、視覚の幸せをくれる、なんてまさに死角がない、ってやつじゃないか(って変換候補みて感動したんだけど、これ完全に蛇足のやつ?)


すごい、すごいな。


聴覚も想像力をフルに活用していたけど、
視覚、もそうなんだ。視覚と物語を紡ぐ声を聴いてるから聴覚も使っているんだけど、でも、どちらにせよ、想像力、をもって、私たちは物語に「参加」する。
もしも私たちが冷めた目で見れば、きっと物語は立ち上がらない。それは彼らの物語の強度の話ではなくて、もっともっとわくわくする、無限大の話だ。

 


そうか、おぼんろさんのお芝居を「お芝居だ!演劇だ!」と嬉しくなるのは、きっとそこなんだな。演劇は、想像力の世界だから。
そして、最後にここに至るまでの彼らの「物語」を見せてくれる。いやもう、メイキングを……おぼんろさんのメイキングを観れる贅沢よ……そして私たちはある意味でそれを観て「知る」ことで「共犯者」になるのかもしれない。彼らのここまでの時間を追体験して、それはきっと、今日、に更に彩りを加えてくれる。

 

想像力をフルに使うこと、共犯者として物語が生まれ生きていく姿を見届けること。


なんだ、いつものおぼんろさんじゃないか。
いつも、や、当たり前が掛け替えのないものだったことを噛み締めている私たちにとって、こんなに安心感をくれることってある……?

 

 

時間も場所も越えて、物語があれば繋がれるのだ、ということをまさかこの状況で彼らは証明して見せたのだ!

 

 

語弊を恐れずに言うなら9日間、違う物語の配信が、と聞いた時正直怯んだ。
連続ドラマを楽しみにしながら同時に恐怖するような感覚で怯んだ。だって9日間だ。しかも、それが1日2本配信される日だってある。果たして無事に完走できるのか、そりゃあ、ちょっとばかり、怯むことだってある。

 

ところが、今思えば…今、と言うのは、初日の物語に参加した、の今、だ……この、「今」、そのスタイルをとってくれるのは、なんて優しい約束だろう、と噛み締めてしまう。

 

そして、興奮のままに書き連ねてしまえば、末原さんのお話は語り継ぐ、のがきっと楽しい物語なのだ。
語り継ぎ、一緒にそれこそ「夜通し話す」ような。百夜物語、なんて言葉だって似合いそうだ。
だけど、現実、それをやるのって難しい。
肉体の制約も、生活という制約もある。しかし、今回の上演スタイルはそんなものを全部取っ払って「語り継ぎ」を実現しようとしているんじゃないか?


日にち感覚も、ともすれば時間の経過すら忘れてしまうような非日常の中で私たちは今生きている。それはそれで貴重で、興味深くはあるんだけど、同時にそれは私たちを磨耗しているような気がする。
そんな中でおぼんろさんがくれた「また明日」の約束は、私たちに「明日」をくれる。


「物語は世界を変えられる」おぼんろさんの物語の終わり、末原さんはいつもそう口にする。それは何も、決まりだからそうだと言うわけではないんだろう。
本気で、末原さんはそう思ってる。しかも毎回、物語を紡ぐたびに。本気で、世界を変えるつもりで、しかもなんなら、私たちと一緒に素敵な、キンキラリンのラブに溢れた世界にしようと本気で思っていてそんなことを言うのである。

 

 

今、私の部屋には物語が詰まってる。
一人暮らしのひとりぼっちの寂しい部屋で物語が飛び跳ねてる。すごい。
この物語と9日間過ごす。すごいぞ、絶対楽しいじゃんか。
そしてそんな時間は、彼らからの「キンキラリンのラブ」の贈り物だと確かに思うのだ。