えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

続ける話


今日も今日とて、頑張った。
ここ最近、スパイスを入れたスープにマロニーや豆腐を入れてもしゃもしゃと食べることにハマってる。時々、まともな献立を作っていないことに怯えはするが、とはいえ、作ろうと思えば作れるな、と思うことでなんとか安心してみるようにしている。

 

 


仕事をめちゃくちゃ頑張って、頑張ったなあとは思うのだけど明確に分かりやすい成果も出ずに、と思いながら、帰る。難しいよな、疲労は確かにあるのに「やったぞー」という感覚はない。

 


そういう時だからだろうか。

生きていくって大変だなあ、どっちに向かえばいいんだろうなぁと考えながら歩いてしまう。

 

 

 

文フリを秋に控えてると思うと、ちょっと安心する。それは明確な目標で期限で、通過点だ。
でも、それが過ぎたら?と思うと不安になるし、自分の毎日が何を積み重ねていくのかと考え込むと「あああ〜」と叫びたくなる。

子どものように成長が分かりやすいわけでも当然なく、なんから退化の方が近いだろう毎日の中で「あれ?何をしてたんだっけ」なんて考え込んでしまう。

 

 


水曜日なのもいけない。週末の解放感もなく、月曜の真新しさも金曜の安心感もない。
そうやって八つ当たりしながらざわざわ這い出してくる不安から目を背ける。

何があったわけでもない。ただ、私がそういう不安との親密度が高いだけなのだ。

 

 

 

ところで、人の声に対しての快不快がわりと顕著な方である。
○○フェチという言葉を知った時から私は声フェチで手フェチだな、と自覚した。手フェチはさておき、声フェチ、とはただ美声であればいい、というわけでもない。
(ということに成人して数年してから気付いた)

 

 

 

この人の言葉をもっと聴いていたいと思うこと。
私の声フェチはそんな形をしている。
それは話し方や間、言葉選びだって重要で、結局は喋りフェチなのでは、と思うが、そうし出すとどんどん分からなくなるから分かり易く「声フェチ」としよう。

 

 


綾野剛さんがいつだか「お腹いっぱいになる声」という表現をしていたが、まさしくそれだ。満たされる声、聴いていて、どこかほつれが治っていくような声。私は、それが好きなのだ。

 

 

 

逆に言えば、そうじゃない声に対してうううと唸ってしまいそうになるし、だからこそ、私は街中でひとりの時は極力イヤフォンをしているのかもしれない。

 

 


さて、なんでいきなりそういう話をしたかと言えば、職場にまさしくそんな私が大好きな声の持ち主がいる。

部署は全く異なり、話す機会もほぼない。だけど私は入社当時からその人の声や喋り、言葉がとても好きだった。ああこういう人がいてくれる環境なのか、と思うと例え今後一切関わる機会がないとしても嬉しい。
そう思いながら珍しく(関わりもないのに!)お名前を覚えたりした。

 

そんな方と今日たまたま、お話する機会があった。あったというか、もう、私から話しかけたのだけども。
声フェチは諸刃の剣で、時々「苦手な声だな」という声の聞き過ぎで頭が痛くなったりする。そういうときにたまたま、その人の声を聴いて、マシな心地になったことがあった。
今日たまたますれ違ったときにえいや!とその話をしたのである。

 

 

今思えば気持ち悪いけど、誰かに対する感謝と好意は伝え方は十分に気を付けたうえで、伝えた方がいい。そう言い聞かせて、話しかけた。
そのとき、話したことを、ずっと繰り返し思い出してる。もちろん、それはとても個人的な話なので、詳しく書くつもりはない。つもりはないのだけど、一つだけ。

 


うっすらとでも続けることだよ、と言われた。そのことをここに書き残しておきたい。
当たり前だけど、私の「どっちに向かえばいいんだろうなあ」なんていううんざりを知ってるわけもなく。たまたま、話の流れだったのかもしれない。
だけど私は仕事のことというだけじゃなくて、なんか、全部のことひっくるめて、そうだよな、と思って、頷いてる。

 

うっすらとでも、だ。それでも、続けていたら、何かになる。

 


最近思う。続けるのが一番、難しいわけだし。
だったら、生きることや生活もまずは続けていたら、なんかになるんだろう。
そしてそれは時々、力が入らず、うっすら、になるかもしれない。だけど別にそれでもいいのだ。続ける、になるのだ、それだって。

 


ひとまずは生活を続けよう、1日1日。