えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

やりたくてやる

なんの意味があるの?と言われたら意味なんてないよ、と答えると思う。

 

つくのラジオごっこの話である。
すっかりこのわがまま日記も26日目で、なんだかんだ終わりが見えてきた。文を書くことについてはおかげさまで苦がないのだなあとしみじみする。
そういうことを考えていると私がやっている行動の中で現状意味分からんのは「つくのラジオごっこ」だなあと思うのだ。

 


アーカイブが残せてるものについてはこちらにいくつかまとめている(し、たまに更新もしてる)

 

 

2021年の秋から始めたので次の秋がきたら3年である。マメさにかけているので、今何回目か分からないけど、でも、たぶん、結構な回数をやってきたのだと思う。し、これからも続けていくと思う。私はこの「ごっこ遊び」が好きなのだ。

 

 

 


初めてやった後にはしゃいでブログを書くくらい好き。この時の気持ちから大きくは変わってない。
変わってないけど、この時はまだずっとやる/やれると思ってなかっただろうな、と思うし、
今、なんだかんだきっと、形を変えても当分は続けるだろうな、と思うのだ。

 


というのも、先週の金曜日、ラジオごっこをソラちゃんとやった。

 

映画、カラオケ、行こ!の感想をああだこうだとソラちゃんと話し、いやこの映画のこと、めちゃくちゃ好きだな?!とニヤニヤ改めてしている。

その中で、今回、急な告知だったのもあり、また華金だったので、ほぼリスナーさん0(最後にお越しいただいたフォロワーさんありがとう!)の状態で走り切ったのだ。

 

 

たぶん、3年前だったら、正直死ぬほど怖かったと思う。やっぱり恥ずかしいことなんじゃないか、とか、巻き込んでごめんと一緒にやってるソラちゃんに思ったりもしたかもしれない。


もちろん、全くドキドキしなかったと言ったら嘘になるしフォロワーさんのアイコンがリスナーさんとして表示された時は安心した。したのだけど、きっと誰かが録音聴いてくれるだろうしなあと勝手なことを思いながら楽しく話していたのも事実なのだ。

 


なんだか私はそんなことが嬉しくて、ありがたいなあと1週間経ってもなお、噛み締めている。
それは、そんなふうに思えるまで一緒に話してくれたソラちゃんをはじめとする友だちや聴いてくれたり感想をハッシュタグを付けて呟いてくれた人たちのおかげだと思う。

 

 

そして何よりそうして何度も繰り返すうちに「私はこれを私が楽しいからやってるんだな」と確信を持って思えるようになったことが、とても大きいのだ。

 

 

何かをやりたいと思った時、最近は「誰かが望んでるわけじゃないよ」と問いかけるようにしている。

それでもやりたいか?と聞くと最近の私は「やりたい」と答えたくなる。誰も待ってなくても、だからなんだよ、やりたいんだよ、私が。

そう言い返すのを確認して「だよなあ」と頷く。うん、そう、やりたいんだよね。
それは、誰も見なくていい、読まなくていい、聴かなくていいということじゃない。
むしろ、3年前始めた時よりも「誰かが楽しんでほしい」という欲みたいなものは濃くなっている気がする。でもだからこそ、「誰かが望んでなくてもやりたいか?」と自分に問いかけることは必要だと思うのだ。
そして私は、やりたいと答えるようになった。前なら「ダメだよねえ」とヘラヘラ笑って諦めてたことを「やりたい」と返して、どうやったらできるか考える。やめろよって言われないための方法とか、そういうのを考えて考えて、思いついてもつかなくても、やりたいことをする。
それは、とんでもなく、嬉しくて幸せなことだと思う。

 


ラジオごっこって好きの発散なんだね、と以前友だちに言われた。
好きなものの話を聴いてほしい、誰かに自分の好きなものについて知って欲しいっていうより「これが!好き!」っていう熱を発散したい&して欲しいなんだね、と言われて、それかも、と思った。
そうだな、確かに私は私の好きなものに興味を持ってもらったり見てもらったりがしたい、というよりかは「これが好き!」とだけ言いたくて文もラジオもやっている。
さらに言えば、例えば家に来たときに好きなものをかけていたりとか、好きなものを一緒に観に行く機会を作りたいのも、なんというか「それに触れていたい」「好きになるべく浸かっていたい」からだと思う。

 


そういうとき、私は一番安心するし幸せだなあと思うのだ。
うん、本当に私は私のためにやってるな。
ついでにそれが、誰かもおもしろいな、と思ってくれたらきっとますます楽しくなると思うからそれはちょっとだけ、目指してみたいと思うのだ。